胆沢城(いさわじょう)は、平安時代の初期、延暦21年(802)、坂上田村麻呂によって築かれた古代城柵遺跡です。 坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)の指導者のアテルイ(阿弖流爲)と戦った場所といった方がわかりやすいかもしれません。
朝廷は奥州支配のため、大和朝廷の時代から、度々蝦夷征伐を行ってきました。延暦8年(789)、征東大将軍紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍とアテルイ率いる蝦夷軍が戦い、朝廷軍が大敗するという「巣伏の戦い」が起こりました。
やがて、時代は奈良から平安へとかわり、紀古佐美から征東将軍坂上田村麻呂へと引き継がれ、延暦21年(802)、胆沢城を築くとアテルイは降伏しました。田村麻呂は彼らの助命を嘆願しましたが、京の公卿は反対し処刑されました。
大同3年(808)、多賀城(宮城県多賀城市)にあった鎮守府は胆沢城に移され、永保3年(1083)の後三年の役のころまで、約150年間、陸奥支配の中心となりました。
発掘調査によれば、胆沢城はおよそ46万㎡、築地(ついじ)で囲まれ、内部には政庁域、その脇に官衙や厨屋などが広がっていました。

 

地図-胆沢城跡
奥州市埋蔵文化財調査センター
2017-11-20

胆沢城跡

胆沢城 政庁地区

胆沢城 政庁正殿

胆沢城 訪問マップ

撮影日:2017年10月17日