1587年4月
徳川軍2万が信濃領有を目指し、北上軍を展開します。
甲斐の国から6000、駿河遠江から1万4000の大群。
半年にも渡る戦いが始まった瞬間でした。
まず先陣を切ったのが、本多忠勝隊3500。
諏訪領内に入り、上原城の東、芹ケ沢にて諏訪頼忠隊2700とぶつかります。
後方からは信濃守護職だった小笠原貞慶隊2500が金沢で深志城代、保科正光隊と激突。
「槍弾正」こと、保科正俊の孫。
諏訪頼忠に与力として迎えられ、弱小河尻家の中では
優秀な統率力から、深志城の城代に抜擢される。
高めの統率と、軍略「神速」がウリ。
口では尽力するような事を言ってますが、
裏切る気まんまんですね( ;∀;)
お父さんの保科正直は上杉に出奔している為、
裏切られないか心配です。
ついに始まった諏訪合戦。
誰もが、徳川家の圧勝を予想していました。
しかし、合戦の流れは思わぬ方向に向かいます。
猛将、忠勝を凡将諏訪頼忠が撃破!
忠勝は顔を真っ赤にして敗走していきました。
徳川軍はそれぞれの要所をめぐる戦いで惨敗します。
実は、これこそが諏訪頼忠の仕組んだ罠だったのです。
甲斐から諏訪までの道のりは、富士見で二手に分かれます。
よって上原城の挟撃を目指す徳川家の大軍は、
芹ケ沢を経由する部隊と金沢を経由する部隊に分断されてしまうのです。
数が減った軍団を諏訪頼忠は各個撃破していきます。
本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、向井正綱、伊丹康直ら
そうそうたる武将達が敗走を繰り返します。
金沢の要所を任された保科正光は夜戦をしかけ、
鳥居元忠隊3500をほぼ無傷で殲滅!
頼れる武将達に囲まれ、諏訪頼忠家中は一枚岩となって戦います。
次々と倒れる徳川軍。上原城にたどり着く頃には、
大軍も9000程になっていました。
そして現れる、徳川家康隊5800
三河武士の魂、見せつけてくれんとする精鋭たちの登場。
後ろからは、徳川家の家老、酒井忠次が続きます。
しかし、銃眼を要とした上原城の防御は、
屈強な三河武士でさえ、はねのけるのでした。
1587年9月末
とうとう2万の大軍をすべて敗走させた頼忠。
絶対絶命のピンチを乗り越え、頼忠に一つの転機が訪れようとしていました・・・。
モブ家臣
「主家の河尻家が揺らいでおります。
このままでは共倒れする恐れも・・・。
旗揚げも視野に入れるべきかと存じます。」
頼忠は悩みます。
このまま秀隆様に仕えていても、いずれは徳川家の侵攻を抑えきれなくなる・・・。
だが、甲州征伐の後、諏訪領を安堵してもらった礼もある。
そこで、頼忠は諏訪湖畔の居館に諸将を集め、評定を開きました。
議題は勿論、諏訪家が旗揚げをすべきか否か。
家臣達はどよめきを隠せません。怒りを露わにする者もありました。
2時間もの評定の末、ついに老臣、保科正俊が重い口を開きます。
「ここは、旗揚げし独立すべきじゃ。秀隆様が主のままでは、国が滅びるのみじゃ。」
その一言で家中は一つにまとまります。
保科正俊の河尻家中での発言力は強く、武将達の信頼は高かったが、
河尻秀隆が戦闘の一切を正俊に任せきりだった為、不信感を抱いていたのである。
諏訪家独立。
大名としての独立。
耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んだ、諏訪頼忠の悲願はついに達成されました。
こうして、諏訪頼重の代に武田信玄に滅ぼされて以来、
40年以上の時を経て再び諏訪家の家紋―梶の葉の家紋が信濃の国に掲げられたのでした。
城主篇 完
次回に続く




















