市バス停「大池町」近辺に
明治期の時代まで
「大池(鞠ヶ池:まりがいけ)」
がありました。
その、
「大池(鞠ヶ池:まりがいけ)」について調べました。
大池と通称される麹ヶ池について…ネットより引用
元禄時代、前津小林村の百姓が総出で十五町歩の灌漑用水のために掘った面積一町五反五畝二十五歩という大きな池(ため池)で、名古屋城下から少し離れた物見遊山の地であった。
『名古屋市史地理編』によれば、その大きさは縦が90間、横が68間、面積は6100坪、周囲は4町58間3尺であったといい、周囲の水田約15町3段8畝26歩を潤す灌漑用水であったとされる。
(場所:前津小林村字田面(後に大池町三丁目)にあり)
大池は明治四十四年に埋めたてられた。
大池(鞠ヶ池:まりがいけ)
明治期の時代の「大池(鞠ヶ池:まりがいけ)」
↓大池(年代不明)
↓明治19年(1886)頃
↓明治24年の地図
↓明治37年の地図
↓明治40年
この図に「ケイバ場」と記載あり
大正期の頃に埋め立てられて「旧商工会議所(大正12年完成)」が建つ
大池は明治四十四年に埋めたてられると共に、
大池の名前は町名にとどめられて、
一丁目から七丁目までの町筋が出来あがり商店や住宅が建てられた。
しかし、その大池町も太平洋戦争により、灰塵に帰してしまった。
現在は、大池町の町名は消滅し千代田となっている。
↓大正12年の地図
↓大正13年の地図
↓中区大池町に建つ名古屋商工会議所
中区大池町4丁目に、
大正12年10月に竣工…鈴木禎次氏(当時名古屋高等工業建築家教授)の設計
(付記)
名古屋商工会議所は、
昭和42年10月、中区白川町2丁目(現中区栄2丁目)に新所屋が竣工し大池町から移転。
↓昭和12年の地図
(参考)
大池町の沿革
1909年(明治42年) - 大字御器所の一部により、名古屋市大池町として成立。
1911年(明治44年)- 上前津町および前津小林町の各一部を編入する。
1942年(昭和17年) - 三田町の一部を編入する。
1969年(昭和44年)10月- 一部が大須四丁目に編入される。
また、千代田二丁目・同三丁目に編入される。
1912年(大正元年)11月 - 名古屋市会において、旧大池敷地について、
財団法人戴恩会に無償譲渡することを決する。
1974年(昭和49年)5月 - 一部が上前津二丁目に編入される。また、千代田三丁目に一部が編入される。
1977年(昭和52年)10月- 一部が千代田三丁目および同五丁目に編入され、廃止。
大池公園
大池(鞠ヶ池:まりがいけ)が埋められた後に造られた公園。
↓場所:中区千代田2丁目5
↓デジカメ
福恩寺…大池公園のすぐ東側にあり
大池で水死した人の霊を祀る石碑が福恩寺に建立されている。
↓訪ねデジカメ
↓大池で水死した人の霊を祀る石碑…赤矢印
↓大池公園のすぐ東側にあり
↓大池で水死した人の霊を祀る石碑
(付記)
↓資料をスキャン
(日めくりより)
今日(28日)の言葉
『情けは人の為ならず』
👅 👅
人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくるということ。
誤って、親切にするのはその人のためにならないの意。
(20,525歩)