桑名市訪問…その3最終(住吉神社:七里の渡跡:蟠龍櫓:九華公園)鯱城学園某クラブ活動の一環 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日(23日)

私「洋ちゃん」通学中の鯱城学園、某クラブの校外活動で、

桑名市を訪ねました。

 

 

桑名市観光ボランティアの方に

紹介して頂いた施設についてのブログです。

 

その3(最終)…❼住吉神社:七里の渡跡:蟠龍櫓:➓九華公園について

(付記)

その1は

桑名市訪問…その1(海蔵寺:通り井:蔵前祭車庫)高年大学鯱城学園某クラブ活動の一環

桑名市訪問…その2(諸戸邸:共用栓:六華苑(旧諸戸清六邸))高年大学鯱城学園某クラブ活動の一環

 

 

❼住吉神社

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、

木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。

住吉浦は、廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。

この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立。

神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。

なお、近年は太一丸堤の上にあった神明社が合祀されています。

ここから、伊勢大橋・多度山方面の眺めは水郷桑名ならではの趣があり、水郷巡りの発着点

として利用されています。

 

七里の渡跡

熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡し」

と呼ばれています。

当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。

ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、

伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。

 

蟠龍櫓(バンリュウヤグラ)

川口町にある七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。

かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元しました。

かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を

表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。

龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。

蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。

 

➓九華公園…散策

桑名城跡として県の史蹟にしていされている。

↓パンフレットをスキャン

 

デジカメ

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➋本多忠勝像

桑名城の三の丸跡に造られた芝生広場で、入口には本多忠勝の銅像が建てられています。

忠勝は徳川四天王の一人に数えられ、慶長6年(1601)桑名城主となり、「慶長の町割り」

といわれる町の大改造を行いました。

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❼鎮國守國神社(チンコクシュコクジンジャ)

鎭國守國神社は桑名城址の中にあります。

もとは天明4年(1784)白河(現福島県白河市)城内に松平定綱(鎭國公)を祀ったのが始まりで、

文政6年(1823)白河から桑名へ移封にともない当社も桑名城本丸に移りました。

幕末の桑名藩の歴史を見つめてきた神社です。

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❽楽翁公百年祭記念宝物館

楽翁=松平定信(1758年生、1829年没)は奥州白河藩主であり、江戸幕府の老中首座を務めた。

藩政はもとより幕府財政の立ち直しに成功した名君であった。

それと共に学問に親しみ、多くの著作や書、画、工芸品を著した。

定信引退後に嫡男の定永が桑名藩に移封したが、定信は桑名へ来往しなかった。

しかし、定信の薫陶を受けた藩士は桑名へ移り、桑名藩政並びに桑名の文化向上に貢献した。

また定信の書画なども桑名に多くもたらされ、現在の桑名に伝えられている。

(特記)

 

(特記)

桑名市にある「七里の渡跡」に行く

桑名宗社(春日神社)を訪ねました…桑名市本町

はまぐりプラザで「焼きはまぐり定食」を食す…桑名市大字赤須賀86-21

としてブログしました。

こちらは、関連としてご覧ください。


(日めくりより)

今日(5日)の言葉

『論に負けても身に勝て』  

 👅

議論では負けても、実利的に得をしたり、有利な立場に立った方が賢明だということ。

 👅

論に負けても実に勝つとは、議論で言い負かされても実利的に得になるほうが、

実際の勝ちだということ。

 

(20,415歩)