桑名市訪問…その2(諸戸邸:共用栓:六華苑(旧諸戸清六邸))高年大学鯱城学園某クラブ活動の一環 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日(23日)

私「洋ちゃん」通学中の鯱城学園、某クラブの校外活動で、

桑名市を訪ねました。

 

桑名市観光ボランティアの方に

紹介して頂いた施設についてブログしています。

 

その2…➍諸戸邸:❺共用栓:➏六華苑(旧諸戸清六邸)について

(付記)

その1は

桑名市訪問…その1(海蔵寺:通り井:蔵前祭車庫)

 

 

➍諸戸邸…(六華苑の裏側…反対側)

 

諸戸水道の共用栓復刻版
初代、諸戸清六の努力により明治37年に完成した諸戸水道には、街路の辻、

主要箇所の55箇所に共用栓が設けられた。

各戸に水道が引かれてない当時は人々が集まり、水を汲んで自宅に運んだとされている。
この原型となった共用栓は市で保管されています。

 

六華苑(旧諸戸清六邸)

六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成しました。

本苑には、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計による4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などがあります。

和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産であり、国の重要文化財に指定されています。

また、庭園は国の名勝に指定されています。

現在は、一般公開され、人々が語らい、憩い、交流する空間として、また、文化を創出する空間として多くの観光客でにぎわっています。

↓チケットスキャン

↓案内看板

↓入口…学友の皆さん

↓苑内にて

↓建物内にて

↓室内から庭園を眺める

 

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(参考)

1846年2月21日(弘化3年1月26日) - 1906年(明治39年)11月12日)、

日本の商人(米穀商)、林業家、実業家。 

三重県の富豪・大地主。 

 

幼名は民治郎。 族籍は三重県平民。

桑名郡木曾岬(きそさき)の加路戸大新田の諸戸家に長男として生まれました。

諸戸家は、代々庄屋を勤める家柄でしたが、清六の父・清九郎が事業に失敗したことで、莫大な負債を背負うことになります。

清六は18歳で諸戸家を継ぎましたが、この時受け継いだものといえば布団・衣類・道具と約20石積の船1隻、そして1,000両を超える莫大な借金であったといわれています。

しかし、清六は、米の仲買いを行いながら、わずか2年ですべての借金を返済すると、商売の基礎を着実に固めていきました。

一方、桑名では、明治時代に入り、市街地の人口増加から衛生状態が悪化し、飲料水を起因とした伝染病が流行していました。

このような背景から、当時の桑名の人々にとって、上水道の建設は悲願となっていました。

1895(明治28)年、桑名町は上水道の計画を行いますが、経費がかかりすぎることから断念します。

そこで、清六は、独力で上水道を造ることを計画し、1901(明治34)年に自家用水道を完成させました。

さらに、1904(明治37)年には、桑名市内に共用栓55ヶ所、消火栓24ヶ所を設置し、無償で市民に提供しました。

完成した諸戸水道は、当時の桑名町の西側および赤須賀村を中心に敷設され、町屋御用水が敷設されていなかった地域を中心に敷設されていることから、清六は町屋御用水さえ利用できない、本当に困っていた人々に優先して水道を供給したのではないかと考えられます。

これらの偉業から赤須賀神明社には、赤須賀村の人々から清六への感謝の碑が建立されています。

 

(日めくりより)

今日(31日)の言葉

『捨てる神あれば拾う神あり』  

 👅

世の中はさまざまであるから、見限って相手にもしてくれない人がいるかと思うと、一方では助けてくれようとする人もある。

たとえ非難され排斥されようとも、くよくよ心配することはないことをいう。

 👅

自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいるものだ。困ったことがあっても、くよくよするなということ。

 

(21,526歩)