名古屋中央卸売市場枇杷島市場跡地の記念碑…西区枇杷島公園に設置 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日(5日)

西区枇杷島スポーツセンターの隣地にあります枇杷島公園に設置されている

『名古屋中央卸売市場枇杷島市場跡地の記念碑』

をデジカメ。

枇杷島公園に、この記念碑の設置については全く知りませんでしたが、

私、通学中の鯱城学園の体育祭が催され枇杷島スポーツセンターで

催された際偶然見つけました。

 

枇杷島市場について

↓ネットより

2013年(平成25年)8月に記念碑設置との由。

1983年(昭和58年)豊山町に名古屋市中央卸売市場北部市場が開場した

ことに伴い、旧枇杷島市場が閉鎖される。

枇杷島市場といえば当時は下小田井の市といわれ、
その後300年の歴史を誇る。

現在は名古屋市北部市場として西春日井郡豊山町に名古屋市が設置。

 

↓Wikipediaより…もう少し詳しく

枇杷島市場は、

西区上更通りに所在した。

江戸時代から続く伝統的な青果市場を整備し、1955年(昭和30年)に

開設された。

前身である青果市場は徳川家康の命により開かれた「下小田井の市」

であり、江戸新田・大坂天満とも並ぶ日本三大市場と称せられたという。

1983年(昭和58年)北部市場の開場に伴い閉鎖された。

跡地には、枇杷島スポーツセンターおよび住宅が整備されている。

 

↓ネットより

◆昭和 30 年開設以前の枇杷島(青果)について。

旧藩時代は、尾張藩領内の問屋市場業者は独り西枇杷島市場に限られていた。

明治維新後自由競争となり当時橋にも最初二戸開業したが、その後追々増加し、

十数戸に及ぶ。

業務も追々活発になり対岸西枇杷島と拮抗してきた。

太平洋戦争の影響により青果物は統制され、業者は廃業の止むなきに至った。

終戦後は統制も解除され活況、東枇杷島市場だけで年間約 3 億円の取引が 

あったと云われる。

その為橋西の市場と共に本邦有数の市場に数えられていた。 

そして昭和 30 年に中央卸売市場枇杷島市場として併合をして幕を閉じる。

 

デジカメ

寄贈は
名古屋市中央卸売市場
    北部市場協会

 

記念碑の内容…ネットより引用

  名古屋市中央卸売市場

    枇杷島市場跡地

名古屋市中央卸売市場枇杷島市場は、慶長年間に始まる。
西春日井郡枇杷島町の青物市場を継承する、名古屋圏の青果物の物流拠点として
この地に昭和30年1月に開場しました。
開場当初の敷地面積は30、458㎡、建物延べ面積6,588㎡
青果取扱高14万トン、取扱金額36億円でした。その後 高度経済成長に伴い
昭和50年代には 取扱金額も800億円を超え、また生鮮食料品の流通事情に伴い、
卸売場や駐車場を増築してきましたが、当市場が手狭になった為、昭和58年3月に
西春日井郡豊山町の北部市場に移転しました。


年表

1611年 慶長16年 この頃青物市(のちの枇杷島市場)始まる
1942年 昭和17年 名古屋市中央卸売市場設置計画案可決
1950年 昭和25年 北分場(のちの枇杷島市場)建設地、西区上更通に決定
1953年 昭和28年 北分場起工
1954年 昭和29年 北分場「枇杷島市場」と改称、第1期工事完了
1955年 昭和30年 枇杷島市場開場

 

(日めくりより)

今日(23日)の言葉

『日に三度我が身を省みる』   

 👅

一日にいくたびとなく自分の身を反省してみて、正しい言動をする。

つねに反省することの必要性を説いたことば

 👅

日に何度となく、自分の言動を反省することをいう。

 

(23,772歩)