先日、
名古屋市博物館・常設展会場・フリールームで
『小牧・長久手の戦い』に関する資料の展示を鑑賞…。
☟
私「洋ちゃん」、
『うろ覚え』の事柄が多々ありと感じ、
「小牧・長久手の戦い」について手持ち資料等を見ながらまとめました。
1.ポスト信長をめぐる対立
本能寺の変で倒れた織田信長の後継者争いに端を発した政争の中で立場を強めていく秀吉。
脅威を感じた信長の次男信雄(のぶかつ)は、織田家同盟者の徳川家康に助けを求め、家康もこれに応じて戦になる。
2.小牧・長久手での戦闘
1584年(天正12年)豊臣(当時は羽柴)秀吉と徳川家康が直接対決した唯一の合戦。
長久手での戦闘では、家康方が大勝し、秀吉方の多くの武将が戦士する。
秀吉は追撃をあきらめ、引き返す。
3.尾張・美濃西部、蟹江での戦闘
秀吉は攻撃目標を尾張・美濃西部に変更し、この付近の徳川・織田方の諸城を攻撃し、長久手で大勝した家康を小牧山城からおびきだす作戦に。
しかし、家康は挑発に乗らず、秀吉は本来の目的を達成できず。
後、天正12年(1584)小牧・長久手合戦の後半戦ともいうべき、蟹江城の争奪戦で、織田・徳川連合軍が勝利。
4.信雄の単独講和と家康の臣従
開戦以後(尾張では苦戦するも)伊勢方面では秀吉勢が圧倒的に、ほぼ全域を制圧していた。
秀吉は信雄に和議を申し入れ、信雄は単独で受け入れる。
秀吉と戦う大義名分を失った家康は、すぐに撤退。
その頃、秀吉は紀州攻め、四国攻めを成功させ、関白にも任官され家康との政治力の差は大きく開く。
・家康は秀吉の家臣となり、同盟関係にあった小田原攻めで北条氏を攻撃。
・以後、秀吉は天下を統一!!
☟資料をスキャン
👇参考資料
↓
👇拡大
↓2023年6月8日付け中日新聞朝刊よりスキャン
(特記)
平成28年度 長久手市郷土資料室特別展「小牧・長久手の戦い」を鑑賞
(日めくりより)
今日(17日)の言葉
『知らずば人に問え』
👅 👅
知ったかぶりをして恥をかくよりも、知らないことは素直に人に尋ねるのがよいという教え。
(24,182歩)