私「洋ちゃん」、名古屋市緑区内にある
名古屋市教育委員会設置の名勝標札巡りをしています。
その一環で、
先日、
「大高城跡」の名勝標札をデジカメ。
設置場所 緑区大高町城山
↓名古屋市教育委員会設置の名勝標札…№13
↓緑区史跡散策路より引用
築城年代は不詳。
永正年間(1504から1520)の頃は花井備中守が、天文・弘治の頃には水野忠氏父子居城した。
桶狭間合戦のときには、今川の支配下にあり、松平元康(徳川家康)の兵糧入れは有名である。
合戦後元康は三河に帰り、廃城となった。
その後、元和2年(1616)志水忠宗が三の丸に宅を設けたが明治3年(1870)に廃した。(昭和13年国指定文化財)
大高城跡は寛文相々覚書によると標高20メートル、東西106メートル、南北32メートルの台形の丘で四方に二重の濠があったが、現在は土居、内濠とも形態はほとんど認めがたい。
古くは天白川の北方は年魚市潟といわれこの地からの景観は絶景であった。
築城年代は不詳であるが、永正年間(1504年から1521年)の頃に土岐氏の守護代出の花井備中守が、天文・弘治(1532年から1557年)の頃には知多郡東浦の水野忠氏・大膳父子が居城した。桶狭間の戦いの直前に鳴海城主山口左馬助に攻められて落城。
今川方の鵜殿長助の支配下にあり、織田信長が鷲津・丸根の砦を築いて対抗したが、松平元康(徳川家康)が弱冠17歳で兵糧入れに成功したのは有名。
合戦後元康は岡崎に帰り、廃城になった。
その後元和2年(1616年)志水忠宗(1574年から1626年。
徳川義直公の母相応院の兄)が尾張藩の家老(一万石)として城跡に居宅を設け明治3年(1870年)に廃した。
昭和13年に国指定の史跡になった。
本丸西端に鶴岡八幡宮を勧請した城山八幡宮があり、寛文10年(1670年)に志水甲斐守が寄進した石灯籠がある。
(追加)
(特記)
大高城について
緑区内にある名勝標札巡りについて
「長福寺」の名勝標札…緑区有松町桶狭間字寺前24(緑区名勝標札 №12)」
「氷上姉子神社」の名勝標札…緑区大高町火上山1-3(緑区名勝標札 №11)」
「有松絞」の名勝標札…緑区有松町有松字橋東南(有松会館)(緑区名勝標札 №10)」
「鳴海絞」の名勝標札…緑区鳴海町向田95番地先(緑区名勝標札 №9)」
「芭蕉最古の供養塔」の名勝標札…緑区鳴海町根古屋16(誓願寺前歩道上)(緑区名勝標札 №8)
「瑞泉寺」の名勝標札…緑区鳴海町字相原町4(緑区名勝標札 №7)
「平部町常夜灯」の名勝標札…緑区鳴海町平部2(緑区名勝標札 №6)
「戦評の松」の名勝標札…緑区有松町桶狭間字寺前(緑区名勝標札 №5)
「桶狭間古戦場」の名勝標札…緑区有松町桶狭間北3-1101(緑区名勝標札 №4)
「丹下砦跡」の名勝標札…緑区鳴海町清水寺40(緑区名勝標札 №3)
「鉾ノ木貝塚」の名勝標札…緑区鳴海町鉾ノ木(緑区名勝標札 №2)
「雷(いかり)貝塚」の名勝標札…緑区鳴海町矢切50(緑区名勝標札 №1)