私「洋ちゃん」、中川区内にある
名古屋市教育委員会設置の名勝標札巡りをしています…№5
その一環で、
先日、
「万場宿跡」の名勝標札をデジカメ。
設置場所 中川区万場一丁目
↓名古屋市教育委員会設置の名勝標札
↓デジカメ
万場宿跡について
↓中川区史跡散策路より
◎旧佐屋街道
・その昔、東海道を旅する人が熱田の渡しからの海路を避けて通った脇街道で、
佐屋路または姫街道とも呼ばれた。
・浪漫的な響きをもつこの道は万場の渡し跡から西に延びて海部郡大治町へと続く。
・街道沿には火の見櫓、低い二階家、黒壁の家、高く土盛りした民家が並び、
懐かしい日本の昔の雰囲気が漂う。
◎万場宿跡<万場の渡し>
・庄内川にかかる万場大橋から100メートル南の堤防に跡碑が立っているが、
この付近に渡船場があった。
・尾張名所図会に描かれた渡し船には馬2頭、客9人、籠、船頭2人が乗っている。
・このような大きな川船が行き来していたことは東西交流の多さを物語る。
↓Wikipediaより
万場宿(まんばじゅく)は、佐屋街道の宿場である。
・佐屋街道は1634年(嘉永11年)に開設され、万場宿は開設当時から設置されて
いた宿場である。
・1636年(嘉永13年)に、庄内川の対岸に隣接して岩津宿が設置されると、
このふたつで1宿として機能するようになる。
・月の前半15日は岩塚宿が、後半15日は万場宿が人足継立や休泊の役を務め、
庄内川を渡る万場の渡しについては万場宿側が管理を行った。
・天保年間の規模は、宿高:913石8斗6升9合、家屋:160軒、人口:672人、
問屋場:1、町並:6町10間、本陣:1軒、旅籠:10軒。
・脇本陣は設置されていなかった。
↓中日新聞ぬ連載されていた「街道を行く」よりスキャン
👇
尾張名所図会、佐屋街道図会などから江戸時代の佐屋街道の万場の渡し、万場宿を偲びます。
銘板の本文
佐屋街道は、熱田から岩塚、万場、神守佐屋を経て桑名へ渡る陸路六里、海路三里の行程で、江戸時代の東海道の脇街道として大変賑わった。熱田(宮)ら海路桑名へ渡る「七里の渡し」が一般的だったが、風雨による欠航や船酔いを避け、陸路を望む人たちも多かった。
尾張名所図会の川舟には多くの人、荷物や馬までが乗っており、昼夜を分かたず渡船することができたが、渇水の時期には歩いて川越えができても許されていなかった。舟賃は一人一文、中水のとき三文、大水のとき八文、荷物も五文、十文と区分されていた。(「尾州領郷帳」他参照)
万場宿には本陣と問屋とを兼ねた家もあって、やや宿場としての体裁をたもっていたが、一ヶ月のうち上十五日は万場宿でつとめ、下十五日は岩塚宿でつとめる慣行で、万場の渡しは万場宿が管理していた。渡しの痕跡として秋葉社の南に常夜灯が残っている。
☟尾張名所図会より
(特記)
万場宿跡について
中川区内にある名勝標札巡りについて
「下之一色漁港跡」の名勝標札…中川区下之一色町新川堤防外法21(中川区名勝標札 №4)
「徳左川跡」の名勝標札…中川区豊成町1番53(中川区名勝標札 №3)
「空雲寺」の名勝標札…中川区中島新町4丁目1201(中川区名勝標札 №2)
荒子観音寺「観音寺多宝塔」の名勝標札…中川区荒子町宮窓138(荒子観音)(中川区名勝標札 №1)