私「洋ちゃん」、
港区内にある
名古屋市教育委員会設置の名勝標札巡りをしています…№1。
その一環で、
先日(1月28日)
「鬼頭景義・勘兵衛宅跡」の名勝標札をデジカメ。
設置場所 港区春田野三丁目202(南陽神社北)
↓名古屋市教育委員会設置の名勝標札…№1
鬼頭景義・勘兵衛について
↓港区史跡散策路より引用
鬼頭景義は、寛永8年(1631)から明暦3年(1657)に至る27年間、新田開発や治水事業を行った。
この地に居住した景義直系の子孫には、代々勘兵衛を名乗る者が多く、そのため勘兵衛屋敷と
呼ばれたという。
現在は長屋門を残すのみである。
景義の墓地は中川区の空雲寺にある。
福田行在所について
↓港区史跡散策路より引用
明治13年、明治天皇が京都巡幸のおり、鬼頭家に着かれ昼食をとられた。
このとき,海東郡津島村の山田庄次郎が泥亀9匹を天覧に供し、このうち5匹を
陛下がお買い上げになったといわれる。
↓ネットより引用
・鬼頭景義は、その先祖は源為朝とされ、
江戸初期に福田新田などを開発し、木津用水、萱津用水も開発した。
・この近くに福田新田を開発した鬼頭景義とその子孫が暮らす屋敷があった。
・屋敷は第二次大戦の空襲で焼けてしまったものの、
長屋門は焼け残ったため、神社の北に移築して保存している。
・鬼頭屋敷は明治天皇が江戸へ行った明治元年と明治2年にそれぞれ休憩所
として立ち寄ったところだった。
・明治元年に江戸は東京とあらためられた。
デジカメ
(付記)
↓中川区人物事典より引用
鬼頭 景義(きとうかげよし)新田開発の第一人者
17世紀、27年の間に27カ村、石高2万3千石を開拓した。
・鬼頭勘兵衛(吉兵衛)景義は源為朝の子孫といわれ、八田村(中川区八田町)に在住しました。
・土木工事の技術に優れた才能を持ち、寛永8年(1631)から明暦3年(1657)までの27年間、
新田開発に東奔西走し、尾張西部を中心に美濃まで合計27ヶ所の新田を開き、
その総石高は2万3千石にも及んだといいます。
・中川・港・熱田区の中島新田、中野内・外新田、東・西福田新田、熱田新田などが含まれる。
・晩年は仏門に入り、自ら道龍山空雲寺を中島新田に開きました。
・空雲寺には景義の墓碑と木像があります。
・新田の開拓に尽力した景義が熱田新田の干拓工事に携わっていた時、夢枕に観音さまがたち、
「この場所(須成)に水の引くところがある。そこに鶴がとまったらその場所から埋め立てを
始めるように」告げられ、その通りにしたら首尾よくいったので番割ごとに観音を祀ったと
言う口伝が番割観音の十二番に残っています。(異説もあり)
↓名古屋の史跡と文化財おりスキャン
(追記)
(参考)
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(今朝、デジカメ)
東海中学校…我が家の近くにあります