先日(25日)
北区の志賀公園内にある
平手政秀宅跡を訪ねる。
平手政秀は、
戦国時代の武将。織田信秀、信長の2代に仕える。
尾張国春日井郡にあった志賀城の城主。
志賀公園・平手政秀宅址について(名古屋市北区史跡散策路より引用)
織田信長のために諫死した平手政秀宅址を中心に造成された廻遊式庭園の公園で
ある。
公園造成中、弥生式土器(揚り戸遺跡の一部)を多数出土し、弥生人渡来を立証し、
考古学界で注目された。
出土品の一部は、市博物館と金城小学校に展示されている。
デジカメ
↓平手政秀の影徳碑
享和2年(1802)に尾張藩の有志が平手政秀の忠誠をながく伝えるために建立した
もの。
さらに、
大正5年(1916)には、愛知県が平手政秀邸址であると証する碑、平手政秀邸址の
平手政秀宅跡の標札(名古屋市教育委員会設置)
↓影徳碑の左にあります
志賀公園の由来が書かれた標札(名古屋市農政緑地局設置)
(付記)
2013年3月16日にタイトル「志賀城(平手政秀邸跡)」としてブログしました。
関連する部分を下記にコピーしました。
記
志賀城は、
室町後期の築城で城主は平手政秀。
織田信長の守役(教育係)を務めた、平手政秀の屋敷があったと伝わる。
古記録(尾州古城誌)に志賀城(または西志賀城)があったと記載されている。
城館はかなり豪邸でその造作は立派であったと記されている。
江戸時代にはまだ堀跡が残っていたが、次第に近在の農民に開墾されて田園地帯になってしまいました。
平手政秀は、
うつけものと呼ばれていた織田信長の奇行を諌(いさしめる)ために自害したとされているが、
真偽は諸説ありはっきりしない。
政秀は美濃と尾張が同盟を結ぶ際、みごとその橋渡し役を果たし、斉藤道三の娘である帰蝶(濃姫)
を織田家に嫁がせることに成功させた張本人といわている。
(追記)
尾張名所図会より
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2021年10月15日に追記する