東区赤塚町と山口町の町名の由来 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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今日、

東区赤塚町と山口町の町名の由来について調べました。


 

 

基幹バス停「白壁赤塚」及び「「山口町」の辺りにある町名です。

 

赤塚町の町名の由来について
 
     

・元、この辺りに赤土の大きな塚があり、鉄砲の射的場となっていた。 

  ★鉄砲をうつために、大きな赤土の塚を築いたので、この名がある。

・寛文3年 (1664)ごろ町屋を作って以来、この名前がつけられた。

 

(付記)

交差点北東にある神明社はもともと赤塚・山口町をはじ め、この辺りの土産神(うぶすながみ)として知られ、この参道筋として栄えてきた町である。  

    

       

 

山口町の町名の由来について
 

・慶長築城の際、今の名古屋は那古野と呼ばれる土地であり、樹木が茂り、山あり谷あり、坂も急な地域であった。

・この那古野山の東部の入口付近一帯はこのことから山口と総称されていた

 

(付記)

(東区の約3/4を占める)この地に人が住むようになったのは、藩祖義直の母相応院(於亀の方)が寛永19年(1642)死亡し、その葬儀がこの山口の地で行われ(一説には布池町ともいわれる)翌20年一面の野原に相応寺が建てられてからのことといわれる。

 

※相応寺は昭和7年に千種区城山に移転

・つまり寺院ができあがってから人が後から住みついて町ができたのである。

・現在の町は明治9年(1876)長塀町と呼ばれていたが、同17年山口町と改められた。

 

私、所有の大正13年発行「大名古屋市街地図」をスキャン

青矢印の場所に相応寺があり。