今朝、散歩で名古屋テレビ塔南に植えてあります、
「小袖懸けの松」をデジカメ…
※我が家からテレビ塔までゆっくり徒歩で30分弱で行けます。
小袖懸けの松については、
下にデジカメした案内標札をお読みください。
「小袖懸けの松」は、『藤原師長公』にゆかりのある松です。
★実は、私「洋ちゃん」は瑞穂区の某史跡の会に所属いています。
瑞穂区妙音通りにある藤原師長公の謫居跡についても案内させて頂いています。
瑞穂区に関する資料収集に関心が多々あります。
左)ネットより引用
尾張名所図会…小袖塚をスキャン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(追記)
2013年7月27日に
タイトル「藤原師長公謫居跡(ふじわらもろながたっきょあと) 」
としてブログした。
その一部分を下記に転記しました。
↓
瑞穂区の地下鉄・妙音通駅の南、嶋川稲荷境内に
藤原師長公謫居跡(ふじわらもろながたっきょあと)があります。
謫居(たっきょ)とは
罪によって、自宅に引きこもったり、遠くの土地へ流されたりすること。
・平清盛により尾張井戸田へ流され1年余を過ごしたときに住んでいた所です。
・碑は区画整理で嶋川稲荷社境内へ移転。
藤原師長公の略史。
・平安時代末期の貴族で、京の都で関白太政大臣の職に就いていました。
・しかし1179(治承3)年、平清盛がクーデターを起こし、
後白河法皇の院政停止を行い鳥羽殿に幽閉し、後白河法皇の側近を排除。
関白太政大臣だった藤原師長を尾張国井戸田へ流罪とした。
※当時(840年程前)の尾張は、政治犯を配流するほど都から遠く離れていた地である。
・師長は、井戸田へ流され、近くの龍泉寺に度々訪れ、出家し仏門に入り、
『理覚』と法名を授かる。
龍泉寺には師長公画像、師長公記(二巻)が所蔵されています。
・師長は、琵琶の名手であり徒然に弾いていた。
朝・夕、東北2キロの丘に登り(今の師長町の丘陵)琵琶を弾じて京をしのんだ。
その音色が熱田神宮の神宮の御前まで響き、宝殿は大いに震動したと言われています。。
・井戸田の村長、横江深光の娘が師長の身の回りの世話をするうち恋に落ちる。
・翌年、平清盛の怒りが解け、罪が許され京に帰ることになる。
①側に仕えていた村長、横江深光の娘が、別れを惜しんで枇杷島までついて来て見送る。
②師長は不憫(ふびん)に思い、娘に大切な「白菊」の銘のある「枇杷」を与え、家に帰るように
説得して別れる。
③娘は、別れを告げられ悲しみのあまり、形見に貰った「白菊の琵琶」を抱いて川に身を投げ
て水死する。
※「白菊の琵琶」は、「幻の琵琶」といわれ、熱田神宮から尾張徳川家に伝わり、その後、焼失
したと伝わっていたが、平成22年宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されていると発表された。
・枇杷島の村人達は娘のために「清音寺」を建てて冥福を祈る。
・その後師長は、
1192年(建久3年)55歳の生涯を閉じ、法名(戒名)を妙音院と号す。
瑞穂では、師長にちなみ師長町と妙音通りの町名がある。
※西区には枇杷島町・琵琶里町・白菊町がある。
妙音通の町名の由来…「藤原師長」の法名「妙音院」による。
師長町の町名の由来
…藤原師長が、この辺りで琵琶を弾いており、その場所が琵琶ヶ峰といわれ
たことによる。
藤原師長謫居跡です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
師長町にある
藤原師長公
琵琶ケ峯遺蹟
の石碑です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
尾張名所図会より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
枇杷島の村人達は娘のために建てた「清音寺」にある標札です。
清音寺・白菊伝説について
(20,087歩)