先日、 南区内にありました
戦国時代の城郭、
・年代 …戦国期
・城主 …蔵人浄盤・加藤弥三郎・佐久間信盛
◇目標…安泰寺
◇遺構等…なにもなし
現況
城址は「安泰寺」になっている。
今も小高い山上にあり、四方が急峻な崖の要塞であったと想像できる。
(山崎城の規模は、東西役45m、南北約56mとあまり大きくありませんが、南側の大手以外、三方が鋭い崖となっていたと思われる)
略史
築城は、蔵人浄盤が築城した城で築城年は不明。
蔵人浄盤についての詳細は不明。
次の城主が信長の小姓であった熱田の豪族加藤氏の一門加藤弥三郎です。
加藤弥三郎は永禄の桶狭間合戦(1560)で討死(戦士)する。
その後、三代目の城主として、御器所西城(名古屋市昭和区)の佐久間信盛が一時居城しましたが、天正八年(1580)に信盛が信長に追放された時、山崎城も廃城になる。
安泰寺の境内にて
(付記)
安泰寺の西南側を名鉄本線が走るが、これは往時の西南の堀跡だったという
坂の上が安泰寺
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「山崎砦址」について
・所在地…南区岩戸町
・年代 …戦国期
・城主 …佐久間信盛
◇目標…白豪寺
◇遺構等…なし
現況
・白豪寺の境内が砦の址。
・城址碑もなく、遺構もない。
略史
山崎砦は織田信長の家臣・佐久間信盛が築いた砦跡です。
一説によると場所的に桜中村城の山口氏に対抗するために築かれた砦といわれる。
砦跡に建つ白毫寺の創建は、元亀二年(1571)ということより、桶狭間合戦後、山口氏の勢力が衰えた事から、山崎砦の役目も終わり、その後、白毫寺が創建されたと思われる。
(付記)
白毫寺は高台にあり、ここの高台の下は、かつて『年魚市潟』(あゆちがた)と呼ばれる遠浅の海だった。
(かつてはこの砦跡のすぐ側まで海が迫っていた事を想像させる)
この地は、その昔、源頼朝がこの山で休憩したという故事から「桟敷山」と呼ばれた。
今月8日にタイトル
「東海道「富部神社→地蔵院→白豪寺→熊野三社松巨島→山崎城址(安泰寺)」に行く 」で白豪寺、山崎城址(安泰寺)についてブログしました。
こちらも、ご覧ください。