今朝、
南区本星崎町字本城にある
笠寺小学校が城址とされる
「星崎城址」(平城)を訪ねました。
(現在、私「洋ちゃん」が楽しんでいる古城巡りの一環で訪ねました)
星崎城について
現 況
・笠寺小学校の建つ台地一帯が城址とされる。
・笠寺小学校の運動場が本丸跡、
校舎のあるところが二の丸跡、
道路を挟んだ南に三の丸、大手門があり。
・現在でも笠寺小学校の周辺には、出丸部分や堀跡の遺構が見られる。
・東西が約47メートル、南北が約61メートルあったといわれており、城の周り
には堀が掘られていた…本格的な縄張りで築城される。
・笠寺台地の南端にあり、伊勢湾が一望できる位置にあった。
略 史
・築城は、治承年間(1177~1181)に山田重忠が築城したと記録にあるが、
定かではない。
・一説には、戦国時代、守山・小幡城の岡田重善の築城とも伝わる。
・二代目、直考(重孝)は、本能寺の変の後も織田家を離れず織田信雄に仕え
三家老の一人になっていたが主君信雄が秀吉の謀略に引っかかり、
三家老を謀殺してしまう⇒下の追記に注
・三代目善同は、その事件直後に鳴海城の山口重勝に城を明け渡した。
・その後、星崎城は山口氏が支配することになりましたが、その山口氏も
天正16年(1588)伊勢国へ転封となり、星崎城は廃城となる
笠寺小学校の校門脇にある星崎城碑…蚊がいっぱい、刺されながらレジカメ
名古屋市教育委員会設置の標札
この階段の上に城址碑があり
石垣の上に笠寺小学校が建つ…笠寺小学校の建つ台地一帯が城址とされる。
(追記)
小牧・長久手の戦いの発端について
1584年(天正11)織田信雄が徳川家康と相談して、
豊臣秀吉に接近していた重臣三人(三家老)を切腹(謀殺)させた。
これが、小牧・長久手の戦いの発端となった。
1582年の本能寺の変後、迅速な軍事行動で信長の後継者の地位を手中におさめかけていた
秀吉の当面の敵は織田信雄であり、その背後の家康だった。
両者の戦端がひらかれるはじめる。
付記です
・本城町(ほんじょうちょう) について…ネットより
・星崎という地名の由来は、昔この地に星が落ちたという(隕石?)伝説があるから、
ついたという説があるそうです。
・本城は星崎城を言い、
戦国時代名古屋南部から知多半島北部を代表する城であ った。
・城に関した地名は、
明治初年の字図に羽城・城下・城・柵下・本城・堀割・町 とみられる。
・また現在の地図にも本城町・本城・堀割・町・城下町が残っている 。
戦国時代には笠寺台地上には10の城があった。
北から①山崎城(安泰寺)
② 新屋敷西城(医王寺)
③鳥栖町(成道寺)
④桜大地掛北城(桜小東へ150㍍)
⑤桜中村城(東宝寺東200㍍)
⑥戸部一色城(本笠寺駅北150㍍)
⑦戸部城 (岡田病院)
⑧市場城(七所神社東200㍍)
⑨寺部城(七所神社北100㍍)
⑩星崎城(笠寺小)である。カッコ内は現在地 。
※今回、
南区の城址を訪ねたのは最初です。
私「洋ちゃん」
これからボツボツとこれらのお城巡りを楽しみながら訪ねるつもりでいます。
お城巡りは狭い道が結構多く、知らない道路をマイカーで訪ねるのは大変です。
駐車場捜しも大変です…ほとんど公共交通機関を利用しながら訪ねています。
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