先日、
犬山市にあります‘楽田城”を訪ねました。
古城巡りを楽しんでいる私「洋ちゃん」です。
現況は、
城跡の地には「楽田小学校」が建っています。
小学校の正面脇に城山があり、城跡と土塁の一部が残っているのみ。
小学校は少し高台にありの中央が本丸跡だったそうです。
戦国時代の尾張の様相についてです、
戦国時代、尾張地方は争乱のるつぼにまきこまれていた。
今川・畠山・斯波氏とめまぐるしく守護が交代し、1400年(応永7年)頃に、越前の守護斯波氏が尾張守を兼ねたのを機に織田氏が守護代として尾張に入部してきた。
下剋上のなかで、1479年(文明11年)守護代織田家は、岩倉(本家)と清洲(分家)にわかれ尾張を南北に分割して支配してきた。
楽田城城について
清洲(分家)の尾張守護代だった織田一族の、織田弾正左衛門久長が永正元年(1504年)に築城。
しばらく、子孫が城を守るも犬山城の織田信清(岩倉(本家)の守護代)に攻め取られ、犬山織田氏の前衛城砦的存在になる。
永禄元年(1558年)浮野合戦で、織田信長が犬山城の織田信清を追い出し家臣の坂井政尚を守将軍とした。
しかし、元亀元年(1570年)の浅井・朝倉との堅田の戦いで政尚が討ち死にし地元の梶川高盛が城主になるも高盛の死後、しばらくして廃城になる。
その後、天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦で、当初、秀吉方の堀秀政が入城し、後に秀吉が本陣をここ楽田城に移しました。
※楽田城の特筆すべきところは、初期天守閣の記載があることです。
『遺老物語』という古記録に、
「楽田城に永禄元年(1558)高さ二間余(約3・6m)の壇を築き、その上に五間、七間の櫓を造り、真中に八畳敷きの二階座敷を造りしが天守の始め」と記載あり。