昨日(24日)中村区のあります中村文化小劇場での催し
「小牧・長久手の戦い」の講演会に出掛けました。
講師の方は 小西恒典様(名古屋市秀吉清正記念学芸員)です。
興味と期待を込めて講演を聴取してきました。
今月13日にタイトル「長久手 古戦場公園」でブログした際には、
『長久手での戦闘では、家康方が大勝し、秀吉方の多くの武将が戦士する』として書き終えました。
昨日の講演会では、長久手での戦闘を終え、
その後、秀吉と家康との関係はどのように変化し最終的にはどちらが勝者に成り得たかについての考察についてです。
講演の表題
・秀吉と家康、生涯ただ一度の直接対決。
・真の勝利者はどちらだったのか。
講演の内容の要旨です(簡単にまとめました)
1.ポスト信長をめぐる対立
・本能寺の変で倒れた織田信長の後継者争いに端を発した政争の中で立場を強めていく秀吉。
・脅威を感じた信長の次男信雄(のぶかつ)は、織田家同盟者の徳川家康に助けを求め、家康もこれに応じて戦になる。
2.小牧・長久手での戦闘
・1584年(天正12年)豊臣(当時は羽柴)秀吉と徳川家康が直接対決した唯一の合戦です。
・長久手での戦闘では、家康方が大勝し、秀吉方の多くの武将が戦士する。
・秀吉は追撃をあきらめ、引き返す。
3.尾張・美濃西部、蟹江での戦闘
・秀吉は攻撃目標を尾張・美濃西部に変更し、この付近の徳川・織田方の諸城を攻撃し、長久手で大勝した家康を小牧山城からおびきだす作戦に。
・しかし、家康は挑発に乗らず、秀吉は本来の目的を達成できず。
4.信雄の単独講和と家康の臣従
・開戦以後、(尾張では苦戦するも)伊勢方面では秀吉勢が圧倒的に、ほぼ全域を制圧していた。
・秀吉は信雄に和議を申し入れ、信雄は単独で受け入れる。
・秀吉と戦う大義名分を失った家康は、すぐに撤退。
・その頃、秀吉は紀州攻め、四国攻めを成功させ、関白にも任官され、家康との政治力の差は、大きく開く。
・家康は秀吉の家臣となり、同盟関係にあった小田原攻めで北条氏を攻撃。
・以後、秀吉は天下を統一!!
5.真の勝者は秀吉に
(追記…まとめ)
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講演会の
パンフレットです
講演会場の中村文化小劇場の緞帳(どんちょう)です。
(左:豊臣秀吉 右:加藤清正)
大きさに圧倒、さすが中村区にあるホールと感心しました。