また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。(ルカ17:28-30 新改訳聖書)
イエス様が帰って来られる時は、また、ロトの時とも同じです。
人々は、まさか、滅びが自分達に臨んでいることには、全く気づかずにいました。しかし、主の憐れみの内にロトがソドムから出て行くや否や🏃、神の裁きが下り、全てを滅ぼしたのです!
主は繰り返し言われます。わたしが来る時も全く同じだ、と。
「――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――」(ヨハネの黙示録 16:15 新共同訳)
盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。(1テサロニケ5:2-3 新共同訳)
続けて、主は具体的な注意を私達に与えてくださっています。即ち、、、
「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。」(ルカ17:31 新改訳聖書)
なぜ、屋上にいる者は、下に降りて行ってしまったのでしょう?
また、なぜ、畑にいる者は、家に戻ってしまったのでしょうか?
それは、御言葉に「家財」とある通り、その人の宝が、階下に、また家の中にあったからです。
「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」(ルカ12:34 新改訳聖書)
For where your treasure is, there your heart will be also. (Luke 12:34 NKJV)
携挙のその時、それは、私達の心の宝が何であるかが、はっきりとする時です。
その日、その時、私達の心の宝が、イエス様であれば、私達は、慌てて階下に降りたり、スタコラ家に戻ったりしないでしょう。
私達の心の宝が、イエス様ご自身であれば、その日、その時、「ここに上れ!」Come up here! との御声を聞く時、私達は、素直にその御声に応えるでしょう。
そうです。He is my treasure❣️紛れもなく、主イエス様は、私の宝です。
何かこれから、無理やり宗教的な神々しい生き方をするように努めよ、というのではありません!
イエス様の圧倒的な素晴らしさに心の目が啓かれていくなら、私達は、自ずと彼を自分の宝として日々を過ごすでしょう!ハレルヤ✨
所謂、携挙(Rapture)、Departureの招きに対する私達の側の応答というものがあるのです。
繰り返し教えられて来ている通り、携挙は、ハプニング、何か予期せぬ交通事故のように起こることでは、決してありません。
私達は、聖霊様の尊い導きによって、しっかりと準備をさせていただき、主のお帰りを今か今かと切に待ち望む中、いつ何時か具体的には分かりませんが、然るべき時に、主をお迎えするために、引き上げられるのです❣️
知らん間に、迎えに来てました〜なんて人は、一人もいません!
「ロトの妻を思い出しなさい。」(ルカ17:32新改訳聖書)
Remember Lot’s wife!
イエス様ご自身が私達の命です。彼ご自身が
私達の健康であり、癒しです。彼ご自身が、私達の豊かな繁栄であり、安全です。この素晴らしい事実に目覚める時、私達は、もう後ろを振り返る必要はなくなります。
2. 霊と魂の峻別
「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:33 新共同訳)
全くもってアーメンです。自分が!自分が!という者は、意外にも失われて行き、もはや生きるのは、自分ではなく、キリスト!キリスト我が命!という者は、守られ、引き上げられて行くのです。
ここに、霊と魂の峻別という極めて重要なテーマが語られています。
魂は、どうしても、自らを生かそう生かそうとしてしまうのです。その一方で、生まれ変わりを体験した霊は、神の性質を宿しており、聖霊の導き通り、キリストという本来の命を生かし出そうとしています。まことに、ハレルヤです。ですから、私達は、霊によって生きるように!と言われているわけです。
問題は、この霊と魂をごっちゃにしてしまうことなんです。魂の領域の事柄であるにもかかわらず、霊的なことだと勘違いしたまま進んでしまうことは、大変な混乱をもたらします。これが、あのバベルの塔の悲劇です。また、あの大淫婦バビロンの正体です。
キリストの花嫁 vs 大淫婦バビロン、これは、実にアップトゥデイトなテーマです。
花嫁も娼婦も、同じ女性です。しかし、その内実は、正反対!似ても似つかないものです。
花嫁👰♀️の特徴は、花婿しかもう見えない、花婿命、花婿が自分の宝、つまり、花嫁にとっては、花婿が全てです。
そして、生涯、花婿のために、自分は存在し、花婿の素晴らしさを生かし出す人生になるわけです。
ですから、花婿、夫の名前を自分の名前として用いるようになります。in the name of Jesus‼️ハレルヤ‼️
ところが、娼婦は違います。同じように(?) 男性には魅力的(?)に一見して見えてしまうし、これ以上はないほど、男性の心を和ませるような甘言を使いますが、それもこれも、全ては、金のため、つまりは、自分のためなのです。
自分が高められるために、男を利用しているだけです。確かに、甘い言葉を耳もとで囁いてくれますが、誰も本気で惚れてなんかいません。
そう、結局、自分!自分!自分なんです。自分を大きくするために、神の名さえ利用してしまうのです。
肥大化した魂の邪悪な動機で動いているというのに、自分は、霊的な活動をしていると勘違いしてしまうのです!まさに、混乱、混同、、、ごちゃ混ぜです。
霊と魂がごっちゃになってしまう、、、より正確に言いますと、魂の働きなのに、霊的だと思ってしまうことが、問題なのです。
3. 輝く麻の衣を纏う花嫁
「羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。」(申命記 22:11 口語訳)
You shall not wear a garment of different sorts, such as wool and linen mixed together. (Deuteronomy 22:11 NKJV)
羊毛は、動物の毛ですから、ここでは、血肉によるもの、肉的なもの、即ち私達の魂によるものを指し、植物性🪴の亜麻糸は、霊によるものを指しています。それをごちゃ混ぜにしたものを着てはならない、それは、花嫁衣装にはなりません。
「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創世記 11:9 新共同訳)
バビロンの起源は、このバベルであり、それは、まさに、バラル、混乱です。神の名前さえ騙りながら、自己を強大化しようとした試みは、あっさりと崩れ去ります。
やはり、羊毛と亜麻糸を混ぜ合わせたものを着てはならないのです。それは、決して花嫁衣装にはなりません。
「わたしたちは喜び、大いに喜び、 神の栄光をたたえよう。 小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。 この麻の衣とは、 聖なる者たちの正しい行いである。」(ヨハネの黙示録 19:7-8 新共同訳)
花嫁衣装は、もちろん、霊的な麻の衣であって、聖霊様のお働きのゆえに、超自然的に輝いています。
霊の人として歩みましょう。キリストご自身が私達の命であり、宝であり、全てであるという事実に目覚めて参りましょう。こうして、花嫁衣装を纏い、花婿なる主イエスをお迎えに上げられるのを待ち望みましょう❣️マラナサ、主よ、来たりませ❣️
〜見よ、わたしはすぐに来る〜
🇮🇱🇯🇵アリエル ミッション は、エルサレムの平和を求め、ダビデの仮庵の回復というビジョンのもと、キリストの恵みの良き知らせを、日本に、イスラエルに、そして全世界に宣べ伝えています。
お問い合わせは、ご遠慮なくコメ欄にお願い致します。心より歓迎致します。
この宣教ミッションは、皆さまの尊いお祈りによりサポートされております。
皆さまのお祈りを心から感謝しております。
アリエル ミッションへのご献金、お振込みは下記までお願い致します。
振込先 三井住友銀行 浦和支店 口座番号5752765 アリエル ミッション