そこには
社会の中でうまく立ち回るには
って前提があるからだと思ってしまうのですが
そもそもその
社会とはなにか?
何を指して社会と呼んでいるのか?
って、ここんとこをよく考えてみてほしいんだけど、そもそもそれは他人の集まりにすぎないよね?
他人の集まりの中でのルールや規則ってのが
法律だったり憲法だったりするんだけど
僕らはつまるところ
社会という共同幻想の中で
その規則やルールや社会人としてのナンチャラって奴に縛られて生きてはしないだろうか?
もちろん僕にもそんなところがありまして、特にPTAの会長をやっていたときなんか、この社会の目、つまり他人の目と言うやつをこれほど意識したことはなかったんじゃないかな?
これ本当に不思議なんだけど
まるでPTAの会長としての振る舞いや言葉使いがどこかにあるような気がしてしまっていて、息苦しさを感じたこともあったんだけど、僕はどこまでいっても杉江という個人でしかなかったんだよね。
社会と言うのは人と人との関係性の中で生まれてくるものであって、個人が存在するって完全なる真実よりもそんなアリもしない社会と言うものに振り回されて、あたかもそのアリもしない社会のルール(他人の目を気にして)生きるなんてのは実に可笑しいことだと思わないだろうか?
僕の個人的な感覚で言えばPTA会長は僕個人の存在より上の地位に値する。
なんて具合に。
だからどこまでいってもPTAの会長にはなりきれなかった。
というのが個人的な感想です(笑)
人と人との繫がりの中では、いろんな関係性が生じてきます。
もっと身近な関係性で言えば親子や兄弟、姉妹といったところでしょうか?
この家族関係の中にも上下関係と言うのが必ず存在してます。
父親か母親のどちらが権力を握り、兄、弟といった具合に。
学校の中でも部活動での身体能力の差や学力の差によりなんとなく上下関係と言うものが生まれてきたりしますし、会社内でも上司や部下の関係や同僚とはいえ能力の差や資格の有無によって上下関係が生まれてきます。
でも、それはそもそも大なり小なりの他人との関係性の中から生まれた関係性のことであり
本当は社会なんてものは、はなから存在しない。
ってことなんですよ。
でも社会、社会、社会に出たらうんチャラ
なんてことを、さもその社会が存在している
かのようなことを言われたら、なんとなく
その社会ってのが存在するような錯覚に
陥ってしまうのもうなずけるんだけど、
そんなものを見たことも触れたことも一度もないんですよね。
何が言いたいのかと言うと。
私という圧倒的存在のリアリティの上に社会という幻想を置くことなかれ!!
ってことを言いたかったんですよ(笑)
社会という共同幻想が私の自由を奪うなんてことはありえないんです。
その在るのか無いのかわかりもしない社会というレールからはいつだって下りることができる、それを選択できる自由もあるってことをどうか忘れないでください。
小さな火種は大きな火種でもあります。
その社会ってのが多くの人間関係の総称であるならばその社会の問題ってのも我々一人一人の自覚の中から生まれてくるものなのです。
良い社会にする必要はなくって、本来は一人一人の自覚だけで十分なのです。
だからいつまでもどこまでも自由な選択の中で、その不自由に感じているその感覚も、自由な選択の中から自らが選択したものなのです。
何事も他人や社会のせいにするってのは
自分の選択の過ちを自分自身が認めているということになります。
どこまでも
本来の僕らは自由です。
ポチッとよろしく(ノ∀`)
哲学・思想ランキング
コチラもよろしく♪~(´ε` )
にほんブログ村