紫微斗数は古くて新しい学問

 

私が研究を続けているのは「紫微斗数(しびとすう)」です。一個人の生年月日時から命盤(めいばん)という人生設計図を作成し、そこに描かれた命運を読み取る、中国命術のひとつです。台湾では、子平八字(四柱推命)をしのぐほど人気があります。

 

「紫微」は北極星を取り巻く星座の名で、紫微垣(しびえん)ともいい、北斗星の北に位置し、古代人は天帝の居所としました。「斗数」は天空の星々をひしゃくに見立て、数(命運)をはかることを意味します。つまり、生まれた瞬間の星の配置から、その人の命運を推断する東洋占星術です。

 

「しび・とすう」と区切って読むべきなのですが、日本の紫微斗数関係者の中には、「しびと・すう」と読んで平気な人がいます。私には、まるで死人の数を数えているように聞こえます。また国内外を問わず「紫薇」と、くさかんむりをつけて表記する人もいますが、紫薇はミソハギ科の落葉樹、さるすべりのことですから、かつて長安の宮廷に多く植えられていたからといって、ここで用いるのは適切ではありません。

 

紫微斗数の成り立ちには、呂洞賓(リュイトンピン)が創始して陳搏(チェンポー)に伝わったとする説と、陳搏が満天の星空を観察していて突然にひらめいたとする説とがあります。いずれにしても、紀元前500年ごろに確立したとされる、「七政四餘(しちせいしよ)」に由来することは明らかです。前出『星平会海全書(せいへいかいかいぜんしょ)』の七政四餘コーナーに、「紫微」の文字が見られたり、12に区切ったスペースに十二支を配置したりするなど、共通点がたくさんあります。七政四餘が紫微斗数へと進化するのに、およそ1400年の歳月が経っています。

 

紫微の文字が見える

 

陳搏(872~989年)は、紫微斗数に心酔した宋代の太宗帝より「希夷先生」の称号を与えられ、陳希夷(チェンシーイー)と呼ばれるようになりました。そこから時代は下って、希夷の第18代子孫陳道(チェンタオ)に伝わり、明代の1550年に儒学者で地理学者の羅洪先(ルオホンシエン)が計四巻を執筆しました。これが今の世に、本系統の教科書として流通している『紫微斗數全書(しびとすうぜんしょ)』です。別に『紫微斗數全集(しびとすうぜんしゅう)』という教科書も存在します。

 

秘術として治世者しか存在を知らなかった紫微斗数ですが、書籍になったことで、ようやく世間にその姿を現します。しかし、広く一般に知られるまでには長い時間が必要だったようで、本格的な研究が始まったのは、たった80年ほど前です。日本はさらに遅れること数十年ですから、紫微斗数はとても古くてまだ新しい学問といえます。

 

現在は台湾・香港を中心に盛んに研究が行われています。「星曜三合派」と「飛星四化派」とに大別されますが、それぞれがさらに細かく枝分かれして、一人一派といわれるくらいに門派が乱立しています。「星曜三合派」は、星の象意と構造パターンを重視します。初心者にもわかりやすく、命運をマクロ的にとらえるのに適しています。一方の「飛星四化派」は、化星という特殊星を縦横無尽に飛ばす技法を重視します。命運をミクロでとらえるのに適していますが、かなりロジックに傾いており、紫微斗数の基礎を理解していないと活用が困難です。

 

この書では、皆さんが紫微斗数になじめるよう「星曜三合派」の技法を取り上げ、さらに必要最低限の星数に絞って紹介しています。「飛星四化派」の技法については、別の機会に譲ります。