テレビが普及した時に、「テレビばっかり見ているとあほになる」ということを大宅壮一という人が主張した。氏がそう主張したのはテレビというメディアが低俗であるから、というのがその理由だった。まあ高尚な内容のテレビ番組なんて一種の形容矛盾なんだけどさあ、どうもそれだけではないみたい。

 

テレビを見ているでしょう。そうすると視覚を司る後頭葉と、聴覚を司る側頭葉は機能しているんだけれどさあ、モノを考える際に働く前頭前野が働いていない、ということがわかってきているの。ようするにぼおっとテレビを眺めてるときはなーんにも考えていないということね。それは賢くはならんわな。

 

近年はテレビは凋落しているけれど、取って代わるのがスマートフォンよね。電車の中でスマホを見ている人の顔を見ていると、ニッポンはもうおしまいだということがひしひしと実感できる。と言ってるオレも気が付くとスマホを眺めてるからお仲間でございます、なんだけれどね。

 

ニンゲンという生物はきっと「情報を取り込む」こと自体に快感を感じる仕組みが脳にあるんだと思う。だから長時間待つことを強いられるところ、病院とか市役所とか銀行とかではロビーに音楽が流れ新聞や雑誌の類が置いてあるんだろう。現在はそれらにとってかわる強力な情報提供ツールとしてスマホが手放せなくなっている、ということ。

 

読書に熱中していても姿勢が崩れてくるけれど、テレビやらスマホを眺めている人の姿勢がなんであんなに悪いのか、という話ね。書籍とテレビとスマホ、これの違いは情報の「量」。書籍は情報としては文字だけよね。テレビにせよスマホにせよ視覚と聴覚からの情報量は文字の何倍にもなるのはお判りいただけると思う。それでね、テレビは置いてある部屋に行かなければ見られないし自分の関心のある番組以外の時は見ないし放送していない時間帯もある。ところがスマホは文字通り携帯できるし自分の見たいものを世界中から検索で探し出してこられるし本当にのべつ幕なしなのよ。情報を取り込むことは人間にとって快感であるから自分が視聴したい情報にずっと接していられることは脳の報酬系にとってはハッピーなことなんだろう。

 

ただ、飲酒がハッピーでも飲みすぎると二日酔いになったりガンマ君が暴れて肝機能の数字に矢印が付くように、過剰な量の情報は脳やカラダにとってストレスと判断される。なんでそんなことを断言できるかというとね、それこそがスマホを一日中眺めている人の姿勢がよくない理由だから。日がな一日スマホを眺めている人の姿勢って、首が前掲して股関節が曲がった独特のスタイルよね。これは実はストレスを受けたときの防御時の姿勢なの。つまりスマホ中毒と呼ばれる状態は脳の報酬系の暴走ということ。報酬系が求めるままに情報を取り入れ続けてそれが心身のキャパを超えてしまった。報酬系は満足するけれど、心身の健康は確実に蝕まれていってる。でも「考えること」は止めてしまっているから特に気にならない。そういう状態が現代の人びとの心身。

 

これってどこか、「阿片戦争」みたいな感じじゃね?