こんにちは
 
今日も
アウェイ感バリバリのドイツドイツ
闘うワーママ
カイザー・ブロートです爆  笑爆  笑爆  笑

 

 

今日お話しするのは、

 

異国の地で

”言葉のハンデ”をかかえて暮らすワーママが

自分の力で立ち上がるまで!

 

カイザー・ブロートのリアルストーリーです💗

 

赤裸々告白 全⑦話!

 

 

 

第①話

~人生の物語はいつも突然に~

 

 

私はどんな人だろう・・・

自分で言うのも恥ずかしいけれど

ひとことで言うと

ま・じ・め人間です。

そうえば、

「まじめでつまらない」と

お付き合いしていた方にフラれたこと、ありました。

 

 

 

 

まじめであるがゆえに(まじめを言い訳に?!)

これまでの人生

できそうもない(と自分が思った)ことには

手を出してきませんでした。

 

まじめであるがゆえに(まじめを言い訳に?!)

自分にできるのはこの辺りまでと、

いつも自分でリミットを決めてきた気がします。

 

 

子どものころから”よい子”で

大人の言うことをよく聞きました。

特に「何かになりたい」という夢もなく

その時、その時で

今、これが最善だろうと思う道を選んできました。

 

 

誰かに何かを与えてもらえば

その”与えてくれた人”に

喜んでもらうため、認めてもらうために

言葉は大げさだけど

いつも「全身全霊」で頑張ってきました。

 

 

 

 

でも、それは、裏を返せば

自分で自分の人生に目標を立てることが

苦手だった・・・

苦手だったというか、

ほとんどしたことがなかった気がします。

 

いつも、自分のおかれた場所で

与えられたものを精一杯こなしてきました。

 

 

新卒で入った会社、

いろいろあったけど

一生懸命仕事をするのが楽しかったです。

 

上司にも同僚にもとても恵まれていました。

 

 

 

 

転職した外資系、

苦しいことも辛いこともたくさんあったけど

毎日朝から晩まで、誠実に一生懸命働きました。

 

ニューヨークやロンドンに

出張にも行かせてもらいました。

 

お給料だってその辺の男性に負けないくらい

稼げるようになったし、

 

ヘッドハンターからも

破格のオファーをもらえるようになりました。

 

今も、あの時の経験が

私の人生を支えていると感じます。

仲間にも本当に恵まれていました。

 

 

 

 

 

そんな私がどうしたことか?

ドイツに住むことになって17年目。

 

 

 

 

ドイツで暮らす!

という夢を持ってやってきた夫とは違い

 

私は、全くドイツ語を話せない状態で

ドイツへ来ました。

 

ドイツ語が分からない私を連れて行くのだから

かならず助けてくれるいう、夫との約束のもとに渡独を承諾しました。

 
 

今になって振り返ってみると、当時、

夫は夫なりに、助けてくれていたと思います。

 

でも、誰一人知り合いも友達もいない私にとって

頼れる人は夫だけでした。

 

もっと、もっと助けてほしかったのです。

 

本当に何もできず、夫が仕事へ行っている間は

ひたすら町の中を歩き回ったり、

 

本当に、一人では何もできませんでした

(と思い込んでいました)。

 

とても孤独でした。

 

 

 

 

ドイツに住み始めて3週間過ぎたところで

ドイツ語学校に通い始めましたが、

 

間もなく長男が生まれたこともあり

ドイツ語はたいしてできないままとなりました。

 

しかも、今度は朝から晩まで、

何語もつうじない子どもと2人きり。

 

毎日、毎日ベビーカーを押して公園へ散歩に、

近くの駅に電車を見に行っていました。

 

そのせいか、

長男は幼少期、電車が大好きでした。

 

 

自分でお金を稼いでいない私の生活は

渡独以前東京で働いていたころのものとは

180度変わってしまいました。

 

朝、昼、夜の3食外食、

好きなものを好きなように食べて、

 

好きな服を買って、

 

読みたい本を買って、

 

仕事を終え夜中にタクシーで家に帰る日々から、

 

ベビーカーでふさがれた私の手は傘をさせず

土砂降りの中をずぶぬれになって歩き、

 

食べてみたいなぁと思ったパン一つ、

買うことができませんでした。

 

夫が稼いできたお金を、

私の好きなこと使うことができなかったのです。

 

 

 

 

長男が生まれる前

ドイツ語学校で先生にもらったお菓子が

本当に美味しくて、

涙がこぼれ落ちそうになるほど美味しくて・・・

 

今になってみれば、どうということもない

スーパーに並んでいるお菓子だったのですが

 

今でもあの時の先生の穏やかな笑顔と

甘くておいしいお菓子に

それまでカチカチに固まっていた私の心が

解かれていく感じを忘れることができません。

 

 

長男が1歳になったばかりの頃

長男と二人で実家に一時帰国していました。

 

当時、海外と話すのはスカイプが主流でした。

 

その日も、

ドイツにいる夫にいつものように連絡を入れると

 

 

「仕事辞めてきたから」

 

 

へ?ポーン

 

うそでしょ?

 

子ども、

1歳になったばかり!

 

私、専業主婦。

 

 

これから、どうしようと?

 

 

何をどう話したのか、全く覚えていませんが

たぶん、私は夫を責めたと思います。

 

次の仕事に何のあてもないまま

仕事を辞めるなんて!

まじめな私には考えらなかったのです。

 

そうはいっても、

決めてしまったものはどうすることもできません。

その時私がいたのは日本でしたし。

 

何をどうしたのか、

記憶の糸を手繰ろうとしても

全く思い出せないのですが

 

日本の実家に滞在しながらネットで仕事を探し、

某日系企業が出していた募集を見つけ

即!

応募しました。

 

幸いなことに採用された私は

夫が仕事を辞めてから3か月で

一家の大黒柱を引き継ぐことになりました。

 

そして働く毎日。

何しろ、まじめなので(笑)

来る日も来る日も、精一杯、全力で働きました。

 

家に帰ったら食事の用意をし、お風呂に入って、

翌日の仕事の準備をして寝る生活。

 

このころ、

長男とはほとんど遊んだ記憶がありません。

 

就職して間もなく、長男が入院したのですが、

その際も、日中は出勤、夜は病院に泊まって

翌朝早朝に家に戻り、シャワーを浴び

再び出勤していました。

 

 

その後夫が新しい仕事に就いたことで

私は大黒柱のお役御免となったのですが、

 

仕事に一生懸命な私は

 

今日業務時間中に終えられなかった仕事は

子どもが寝た後PCに向かい、

 

明日の仕事のことで頭がいっぱいで、

 

夫とよく、子どもの世話、家事分担のことで

言い争いをしていたおぼろげな記憶があります。

 

 

 

 

そして、いつも疲れていて

背中痛に悩まされ

休みの日は寝てばかりいました。

 

 

 

 

東日本大震災の翌年、父を見送るりました。

その際は、当時の上司の好意で、

約1か月半のお休みをいただくことができました。

本当に恵まれていたと思います。

 

 

その翌年には次男も生まれ、

 

心から信頼できる、やはり子持ちの同僚と

「親業スケジュール」と「仕事のスケジュール」を

互いに毎日のように、まるで家族のように

調整し合って助け合い

 

これ以上ない!!『最強のチーム』として
歯車はうまく回っていました。


しかし、よいことばかりは続かないものです。

 

コロナ禍で、ある日突然ロックダウン。

 

仕事は完全にホームオフィスとなりました。

 

同時に、子ども達もオンライン授業となりました。

 

Wi-Fi環境のあまり整っていないドイツで、

子供2人のオンライン授業と

私のオンラインミーティングが重なった時などは

胃に穴のあく思いの日々でした。 

 

 

そして、約2年のホームオフィスが続いたある日

 

「明日出社してください」

 

という、緊急招集がチーム全員にかかります。

 
イヤな予感しかしません・・・。
 
翌日出社した私たちを待っていたのは・・・
 
「チームがなくなります」
 
という知らせでした。


 

 

 

ここで、今までとは全く違う部署で働く

という選択もなくはありませんでしたが、

 

この、未来に希望を見い出し難い先細り業界で、

いままでと同じような不安を抱えて働くのか・・・

と考え悶々とする数日を過ごしていました。

 

よしっ!!

 

まずは、私の「怪しいドイツ語」をちゃんとしよう!

 

9年ぶり、3度目の正直で

先生の笑顔とお菓子に涙がこぼれそうになった

あの!語学学校に通うことにしたのです。

 

そこで私が出会ったのがなんと・・・

 

 

 

 

 

今日も最後まで読んでくださって

ありがとうございましたラブラブ