昨年の年末に毎年年末の恒例になっている国語の授業で内蔵助留守の授業を行った。
内蔵助留守のあらすじは、
主人公岡田虎之助は剣術の秘奥を会得するために内蔵助を訪ねるが、内蔵助は旅に出て不在であった。虎之助は内蔵助の帰りを待つために、近所の百姓閑右衛門の家に世話になりながら帰りを待つことにした。
同じように内蔵助の帰りを待つ侍はたくさんいたが、一向に内蔵助は現れない。
侍たちは待ちきれずに銭をさらって逃げたものもあり、剣術を極める強い意志を持つものは見当たらなかった。
一方で虎之助は関りを持った百姓閑右衛門の見識の深さに気付き始める。
言葉一つ一つの奥深さ、重み、倫理的な普遍性から閑右衛門は何らかの真義を極めた人間だと確信することになる。
侍たちが見向きもしない百姓閑右衛門こそが内蔵助であった。
「先生・・・」
「私に百姓をすることが出来ますでしょうか」
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この物語で内蔵助は、剣術を極めるために必要なものは、
おそらく「人を見る目」と「下坐行」だと伝えている。
下坐とは、自分本来の実力・価値より数段下がった位置で不満の意を表さず誠実に任を務めるということだ。一般的に、下坐の体験のあるものは、いついかなる時も高慢にならず自己の修練ができる師の器に近づくことになるとされている。
(参考:https://ameblo.jp/ )
そして、真義は剣術の外側にあると伝えようとしている。
勉強の真義もおそらく同じようなところにある。
知識・・少し勉強すればだれでも簡単に身に付けられる。あるいはパソコンで調べられる。
見識・・善悪や物ごとに対しての価値の判断が正しくできる
胆識・・困難であったとしても是と判断したことを遂行し続ける強さのこと
学ぶことで身に付けることが出来るのは知識。
見識と胆識を積み上げるための礎にはなるが、大切なものは知識の外側にある。
その典型は歴史の勉強だ。知識の外側に大切な道徳がある。
登場してくる人間の出処進退の時の判断の仕方、立ち振る舞い、どんな死生観をもっていたかなどがそのまま今の子供の道徳になる。
どんな分野であっても、深く掘り下げたときに面白みはあらわれる。
そして外側に見えているものが、本当は大切な真ん中の部分のはずだ。
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ご挨拶が遅れてしまいましたが、あけましておめでとうございます。
内蔵助留守は公立中の国語の教科書や私立中受験の問題でたびたび取り上げられている
名作です。ぜひ読んでみてください。
改めまして今年もよろしくお願いいたします。
少し笑いのセンスも磨いてきます。
「権力と威厳を持ちすぎる者は、いつでも最後には人々の嘲笑の的となる。(チャップリン)」
https://ameblo.jp/kainoki/entry-12237863205.html