無神論者について | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年 9月19日


最近インターネットで情報を見ていると、無神論者の多い事に驚かされる。


もし今マッカーサーが生きていたら(戦後の占領軍司令官で日本人の知能は12才位だと云って日本人を憤慨させた…当時私も若者であったが)、無神論者の意見を見て、


「まだ日本人は未成年なのか」


と云う様な気がする。



良く調べ研究した結果の無神論であれば別の話であるが、私は無神論者の中では、かなりな先輩であると思っている。

私も23才でイエス・キリストを信じる迄は、全く無神論者であった。


宗教を信じている人を見て、何と馬鹿な人達であろうと、本心そう思っていた。


実際、中学の同窓生代表の挨拶では、


「これからの若者は宗教なんかに惑わされる事無く、科学的に生きて行こう」

と、得意気にしゃべった。

又、成人前には村の集会所へ乗りこんで、大人達を説得して宗教行事を辞めさせ様とした事もあった。

しかし大人は誰も相手にして呉れなかったので、結局は未遂に終わったが。

東京では、何か参考になる話でもあるかな…位の気持で教会の集会へ週2回位出席していた。

6ヶ月位も説教を聞いていたが、私の無神論は変わる事は無かった(教会では神も信者も軽蔑している私に対しても非常に親切にして呉れていた…他にはそんなに親切に対応して呉れる処は無かった)。

教会に出席し出して2、3ヶ月あと、ノイローゼ風の女性が出席し出した。

そして何ヶ月かあと、突然その女性は性質が一変して、

「私はイエス様によって救われました」

と、喜びにあふれて皆んなの前で堂々と話す様になった。

この事実は私は毎週見ている人であったので、その変わり方は否定のしようが無かった…何だかんだと理由づけする余地は全く無かった…。

私はそれを見て只々驚いていたが、

(教会には私の知らない何かが有る)

と、感じざるを得なかった。

その女性の幸福そうな様子を毎週の様に見ていて非常に羨ましく思い、私もそうなりたいと思う様になった。

ある日の礼拝で、私は心の中で言ってみた。

「イエス様とやら、あるやら無いやら知りませんが、もし有るのなら、私もあの女の人の様にして下さい」

その途端である(数秒も経っていない)、私の身体から何かが「ドン」と落ちたのを感じた。

それが罪である事が後で判った。

そして私もあの女の人と同じ様に変わってしまった。

もう抑え切れない程の喜びに満たされて、誰かに言わなくでは我慢しきれない程の心に変わった。

そして私の無神論もこれで終わりであった。


私はこの経験を通して幾つかの事が判った。

先ず、聖書に書いてある事が、その通り私の身に起こった事である。


「人もし新たに生まれざれば神の国に入る事を得ず」


イエス・キリストを信じた途端、私の奥底にある霊が生き返ったのである。


「あなた方の経験した事の無い喜びに満たされるであろう」

「そしてあなた方は神から来る平安に満たされる」


その他にも沢山の聖書の言葉が現実となって私に起こった。

そしてもはや聖書のこれ等の言を否定する事は不可能となった。


今、無神論者に申し上げたいが、神の救いを経験した人(クリスチャン)に無神論は有り得ない。

無神論者について聖書は適確に書いてある。

「罪を犯す人は光に来ようとはしない。悪事が明るみに出るのを恐れるからである」


無神論者はすべて神の前に罪人である。

すべてを創造し、生かし育てた神を認めないからである。

無視する事の罪は誰でも知っているであろう。

色々と調べたあげくの無神論者は非常に少ないと思う。

本当は、その人の霊が神を恐れ、神を認めたくないのである。

丁度、死刑囚が死を恐れる余り、死刑は無いと自分自身に言い聞かせ様としているのと同じだと思っている。


私の父親は村では有名な無神論者であった。

死んだらすべてが終りだといつも言っていた。

実際、夜釣りに行くのに深夜、人里離れた墓地を通っていた…それで村では有名であった…。

しかし晩年、死期を悟ってからは、死の恐怖にさいなまれ、側で見て居れない程であった。

彼の無神論もそれ迄であった。

無神論者は「死んだらすべて終りだ」とよく言うが、殆んどの人は死を恐怖としている。

この矛盾はどう思っているのであろうか。

私も無神論であった時、村はずれの夜道を一人で歩くのさえ恐ろしかった。

中学生の頃、幽霊はないと主張する私に友達は、

「では、平家の墓に頭から小便を掛けられるか」

と言われ、私は実行した。

それで、その側を通る時は特に恐ろしかった。

無神論者は自分自身の持つ矛盾を解決したあと名乗るのが妥当と思う。


○死を恐れていないか

死後何も残らないと云う死をなぜ恐れるのか?


○霊など無いと云う人が何故墓場をこわがるのか?

人里離れた墓場に深夜一人で出掛けて、30分程居れたらかなりな無神論者と思う。


○神が存在しない事に命を懸けられるか

神の為に命を懸けている人は何万人もいる。


よく聞く話であるが、死ぬ迄の無神論者はあり得ないと…。

私の父親もそうであったが、神も霊も存在しないと言う人にもすべて霊が残っているのである。

そしてその霊が神を恐れている。

自分の能力の及ばない事が起きて来ると、神を認めざるを得なくなる。

笑い話で、世界的に有名な無神論者が海難に遭い、

「神よ助け給え!」

と叫んだ…この種の話は幾らでもある様だ。


私が救われた時、会社で私を良く知っている人達に無神論者は居なくなった。

それは、私が劇的な変化をした事を皆んなが見たからである。

世の中の無神論者は、この様な神の奇蹟を経験した事も、又、見た事も無い人々であると思っている。

三次元の世界しか無いと思っている人は、高次元を認め様としない。

だから自分の持っている物差しで、

「こんな事が起こるのは神が無い証拠だ」

と云い、

「もし神が在るのなら世界中に戦争が無いはずだ」

と云う。

一体そんな判断基準を誰が決めたのか?

無神論者の勝手な論理である。

聖書にはこうも書いてある。

「見えている物は見えない物から出来たのである」

私はこの言葉を見つけた時、仰天した。

ビッグバンは他の次元から生まれた事が2000年前に書いてある(私の少年時代はビッグバンの始まりは巨大な物質の塊りだと言われていた)。

それぞれ勝手な物差しを持つのは、無理のない事とも思える。

人間とはこうしたものだと信ずる物差しも、国が変わるとガラリと変わる。

殆んどの中国人はボランティアを信用しない。

全く知らない人に金や労力を提供する事は人間として有り得ないと思っている様である(私は現在中国でボランティア活動をしているので良く知っている)。

人間一つの性質についても国によって物差しはこうも変わるのである。

ましてや「神はこうでなければならない」と云う物差しは誰が一体決めるのか…。

だから多くの人の神概念は、人間が作り出した偶像に過ぎないと思っている。

この物差しでは神は見つけられない。


これは私の主張であるが、神ではなく神概念は人間が作り出した産物であると言うべきである。

理論で神を認めた人は、非常に弱い。

神は霊的体験によって確認するものである。

私がイエス・キリストを信じた一週間位あと、気が付いたらタバコや酒が止まっていた。

何度もトライして止め様としたタバコが、気がついたら止まっていた。

何の努力もしていないのである。

この事でも神の大いなる力を信じざるを得なかった。

何としても、何があっても神の存在、又、力を認めたくないという人々は昔から沢山いた様だ。

イエス・キリストはそう云う人を目くらだと云っている。

私は無神論盲信者と思っている。

もう事実等どうでも良いのである。

そう云う人の根底にある霊は神を認めたくない。

神が恐ろしいからである。

私もそうであった。

若い人に無神論者が多いのは、教育の影響だと思う。

先生が無神論者であれば、生徒はどうしても染まり易い。

社会生活のとぼしい若い人の意見は教育者の受け売りであると思っている(例外もあるであろうが)。

唯物論の教育は日教組のせいだと云う人もいるが…。  

若い当人は無神論は受け売りで、大した判断能力も無いと気付いていないと思うが(実は私もそうであった)。


年を取って振り返ると人間の寿命は短いものだとつくづく感じる。

残存余命が数年しかないと思っている私の一日が貴重な様に、若い人にも一日は貴重である。


無神論の理由に聖書の記述がある様だ。

処女降誕とか、よみがえりとか…神の奇蹟や力を経験している人にとっては何の疑問にもなり得ない。

しかし聖書の中には、信者ですら疑問に思う事は沢山書いてある。

私は人にではなく神に聞いてみた。

答えは簡単な事が多かった。

創世記については、神の持つ数字や思いを当時の人間の概念に翻訳している。


神は云われた。

「どうして私が人間の作った単位を使わなくてはならないのか」


又、

「神の国では数字は桁数で数えられている」

神の持つ言葉を人間の持つ物差しで考えて理解しようとするのは、初めから無理である。

天動説については、

「私が天動説を言った事はない」

と神は云われる。

進化論については、

「進化とは、生物の強力な願いによって 性質や機能、形状が変化した生物を云う 。 進化論はそのプロセスにおいて正しい。突然変異は偶然では無く創造主なる神の業(わざ)によるものである。天上でも地上でも偶然はあり得ない」


神様は生きて居られる神であるから、疑問については聞けば、理解出来る様に答えて呉れる(答えて呉れなかった事も多々あったが)。


私は老後、中国で神様との会話を行いそれを記録するのを仕事としている(無神論者には到底、理解出来ない事と思うが)。


私が聖書を正しいと信じるのは、私の身に起った奇蹟が聖書の記述、約束と多く一致したからである。

10種の鍵がすべて合っていた以上の確実さである。

自分の身の起こった事であるので、疑いようがない。

唯物論、無神論では中国の学生のほうが日本の若者よりも筋金入りだと思う。

何しろ共産思想で幼い頃から叩き込まれているから。

しかしである。

そんな若者が次々神を信じ教会へ行っているのである。

現在中国のキリスト教信者の数は7千万とも1億とも云われている。

%にしても、とても日本の比ではない。

中国の大学生が卒業後なんとか良い会社に入り貧困から抜け出したいとの熱心さは、戦後20年位迄の日本を思い出す。

中国のこの将来を考える熱心な大学生が、多数有神論に転換しているのである。

教会信徒になった時の不利益は日本人には想像出来ないであろう。

それでも彼らは神を信じ、教会につながっているのである。


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