質問「イエスのくびきを負うとは?」 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2012年 2月

【質問】新約聖書、マタイ11章の終わりで、イエスは、

「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」

と言っていますが、イエスの軛(くびき)を負うとはどういう意味ですか?


【回答】マザー・テレサを思い出しますね。

彼女はキリストの故に、悲惨とも言える人生を送りました。

心の半分では、どんなに普通の人の様に生きたかったか…。

でも彼女はキリストが持つ性質の為に悲惨な人を見捨てる事が出来なかった…これはキリストのくびきと言えるでしょう。

私も最近では人生を振り返る事が多くなりましたが、キリストに従う時、訓練の連続でしたよ。

でもそれは魂を宝石の様にする為の研磨である事が判っていました。

同じ苦労でも災難と訓練では大違いですよ。

キリストのくびきは、鬼目のヤスリの様でした。

原石を削られる時の涙は、研磨剤でした。

でも 人生の意義や価値をいくらか知っていたから、許容出来ました。

キリストなしで苦行している人は、大変な苦しみでしょう。

イエス様は、

「私に従いなさい。私のくびきは負いやすく、荷は軽いからである。」

と言われました。

キリストのくびきは、難行苦行している人に比べれば本当に軽いものでした。

海南島のヨハネ


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