神の次元について | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年  7月14日

最近、ヤフーの知恵袋なるものを毎日見ているが、実に多種多様な質問があり、又回答がある。

主に宗教欄を見ていると、神について、霊について、天国について、多くの人の意見が出ているが、私に云わせれば殆んど的はずれである。

大抵の人は、三次元に置き換えて理解しようとしている。この世は三次元であるが、もっと高次元の世界も存在する。

神の高さで最高の次元と思うが、それが何次元であるか私は知らない。

先日、「人は死後どうなるか」とのタイトルでレポートを書いていた私は神様に聞いて書くつもりであった。

神様は返事をされた。

「あなたは経験し、かつ知っている。私に聞く必要はない」意訳。

それで私の知っている事を書いたのであるが、私は死んだ事があり、天国を見た事がある。

異次元体験があり、何百回以上神との会話がある。また何十回も天使に命じた事がある。

それでも、異次元は覗き見た程度であろう。そこに住んでいる人?から見れば、お笑いものであろう。

しかし私の能力ではこれが限界かと思う。

神様が説明をされたとしても、多分、外国語を聞く様なものであろう。

一つ次元が違うだけで、大変な違いである事は判る。

三次元に住む我々にとって、二次元は途方もなく簡単な事である。

しかし二次元に住む人が居ったら、我々は皆、神の様に見えるかも…。


四次元を考えてみよう。

1・2・3次元と延ばしていくと、長さも、広さも、高さもどうにでもなる世界と思われる。

その世界では、大きさはどうにでもなる位置もどうにでもなる。

距離もどうにでもなる。

この世界でのこことか、あそことかは関係ない。


もう一つ上の次元を考えよう。

これは私の考えであるが、時間がどうにでもなる次元がある様だ。

その世界では大昔も遠い将来も自由になる。

聖書を見ると、これからこう云う事が起き、その後どうなってと云っているが、時間を自由に出来る次元から見れば、どうにでもなる事である。

つい先日、天使が来てこう云った。

「神には時間を逆戻しする事さえ出来る」

私はその日の日誌にこう書いた。

「恐ろしい事だ。これは恐ろしい事だ」

それなら、神は三次元の世界に対しては何とでも自由に出来ると云う事ではないか…。


そして霊の次元がある。

神も又その次元である。

それが何次元であるか、又、最高の次元であるのか私は知らない。


ついこの前、他宗教について神に聞いた。

「彼等は一体何ですか」

神様は直ぐ答えて呉れた。

「彼等も又霊の集団である」

他の宗教についても、すべてが人間の作ったものでは無い様である。

やはり、天にある霊が働いているのである。

神は又云われた。

「しかし、私に属するものではない」


ここで、私が見た天国について、当時の記録を添付しよう。

と思ったが、聖霊は拒否。

もし千年も前の人に次元の話しをしたら、戯言にしか思えないだろう。

現在でも、神を信じない人々にとってはやはり同じかと思う。

しかし現在の科学は、無からこの宇宙が始ったと云われる程の大進歩である。

もう三次元以上の次元を認めた事である。

もし、人類があと何千年も生き延びたとしたら、次の次元に移行する事が出来るかも。

その時には、月へ行くのにロケットは不要で、行き度い所へは瞬間移動でいけるかも知れない。

その時には神も科学的に証明され、認めない者はいなくなるかもしれない。

現在でも先進諸国へ行くと、

「神を認めない人間が人類にいるの?」

と言われる事があるそうだ。

聖書についてもそうである。

神様がもし2000年前に預言者にパソコンの事を説明したら、何と説明するであろうか。

又、預言者は何と表現するであろうか?

例えの又は例えの様な話にならないか…。

天動説についてもそうである。

神様は言われた。

「私が天動説を言った事はない」

では、聖書はどこでどう間違ったのか…。

聖書学者も含め、これは理解しておかなくてはならない。

神様が預言者に語られ、預言者が正確にそれを表現しようとしても、彼等が持っている言語、又表現方法以外では、表現出来ないのである。

パソコンなどもし表現したとしたら、とんでもない表現になるだろう。


私は預言者は昔存在した仲間だと思っている。モーセ・エリヤ・イザヤ等、非常に敬意を払うが、黙示録のヨハネには大変親しみを感じている。


このレポートを書き終え、9時半頃、日本の教会でパソコンへ入力して貰う為、ファックスを送った。

あー疲れた。


今日の仕事は終わりとソファーに寝ころんだら、幻を視た。


田舎風の道を私が歩いていたら、道端の人が歓迎して呉れた。

少し歩くと3、4人の娘さんが正装で手に青い葡萄を持ち、私を出迎えて呉れた。

白と原色のパッチの服を着て、一人の娘が私の口元へ青い葡萄を房ごと差し出した。

房ごと食べるのはどこの国であろうか。

全く心当たりは無い。

女の子は外国人?ヨーロッパ?の人の様だが、何故、外国なのか?


しかしこのレポートを神様は歓迎している事を私は知っている。

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