私の立場1 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

私は神様に対する私の立場を若い時から色々と考えて来た。一体何だろう?と。

多くのクリスチャン同様、救い出された子である事は間違いない。

又、「あなたの心が私のそばに居てください」と言われた者である事に間違いない。

私は神様の当番兵の様な者かな?・・と、今でも思っている。

当番兵の義務は左記の如きものと思っている。

1 主人の声の届くところにいつも居る事
2 主人にいつも注意を払っている事
3 自分の計画をもたず、約束等はしない事
4 自分の主義や感情をなるべく持たない事
5 勿論 主人に忠実である事

これ等を自分に言い聞かせておるが、昔の軍隊の様に箇条書きにしたものはないかと、自衛隊の基地に聞きに行った処、

「今では 当番兵なるものはありません。従ってそう云う文句もありません」

との事であった(軍人勅喩の事)。

神様から直接、言葉を聞いたり、幻を見たりする事は私の賜物かな?と思ったりするが、しかしどんなに熱心に願っても何カ月も言葉も聞こえず、幻も見えない事もあるので、これも賜物とは言えないと思う。

こう言う私の経験に対しての批判は昔からある。

未信者は勿論の事、非常に霊的と思われる教会の教職からもある。

なかには親切にこんこんと諭して呉れる人もいる。

しかし私はこう云う人々に対しても旅人である事を悟っているので気にしないし、逆らわない。

私と同様の経験を持っていて、私に色々云って呉れるのであれば、傾聴に値するが、ほとんどの人が経験なくして話しをしている。

見たことの無い人が「見えない人」、見たことのある人「見える人」にそんな物はないとか、これはどうあるべきだとか云う事自体、滑稽である。

これを書きながら私は思っている。神の国では天使達も大笑いしている事を。

私は願っている。

現在では神様の言葉を直接聞いたり、幻を見たりする事はないと云う人々に、神様が言葉を語り、幻を見させて下さるよう。

そうすれば、これらの人々の考えは一挙に吹き飛んでしまう。

しかし、これらの人々が経験する事は、非常に難しいと思う。

何故なら、あり得ないと思っている人々に実現する事は、救われないと思っている人が救われる事と同様であるからである。

イエス様はパリサイ人や律法学者に対し、大変怒られたと聖書に書いてあるが、私は前記の人々を含めて、弁明したいと思う。

人間、誰でも自分の専門と自負している分野に他人が異論を唱えれば、たえ難い事であると思う。

パリサイ人の立場から見れば、現在でも極当然の事の様に思える。異論を受け入れる事は、聖霊の助けなくしては出来ない事だと思う。

預言者について私は思う(神様に聞いた訳ではない)。

預言者には誰でもなれる。

誰でも聖霊に満たされて話しをする時、自分の知恵や知識以上の事を話す事があると思う。

嘘だと思う人は実際にやって見ると良い。

例えば、私は説教をするのに、題も含めて全く準備をしない。

その代わり聖霊に満たされるよう、何時間も熱心に祈る。

そして、全く題も与えられなくても講談に立ち、そして祈る。

「神様、今あなたの為に語るべき事は何でしょうか?」

何か頭に浮かんだら、それから話しだす。

そして話しながら絶えず祈っている。

5分で終わると思っていた事も1時間話す事が出来る。

自分の知らない知恵を。

そして自分が一番恵まれる。

これは何も私が云わなくても多数の先輩がある事を知っている。

明らかに聖霊が語られた事を軽視してはならない。

後日、神様は責任を問われる事がある。

「私はあなたに話したではないか」と。

多くの人々に、何故神様が直接語られないのか、一つの理由を知っている。

それは、もし神様が人に語られて、その人がそれを軽視する、又は無視する(都合の悪い時)と、その人は罪を得る事になる。

神様は良くご存じだから、こう云う人には語らない。

又、自分に出来にくい事を神様が言われたら困ると思っていると、神様との間に隔てが出来る(カ-テンの様に)、その場合、祈りの言葉が届かない。

私は従った事も多いが、従わなかった事も数えきれない。

従わないと段々と啓示はなくなって来る。


追記 00/N

13年後の今ワ-プロを打っていて、これは私が書いたのであろうか、と感じる。

自分でも出来ない事をよくまあ、元気のあることで。

その時聖霊によって書かされたのであるので、まあ気が楽であるが、文句のある人は神様に云って下さい。