経験の貴重さを理解する | 水沢実験室

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7万5千年振りに5次元領域へ戻る地球と共にアセンションを希望する人類を導く一助として、波動を上げ、光を放つライトワーカーとしての使命に目覚めた人達へ向けて発信しています。

経験の貴重さを理解する。

前回、値段自体に高い安いの属性は無いと書きましたが、凡ゆる事象は中立で影響力を持ちません。エゴの色眼鏡で良いだの悪いだのとレッテルを貼っているだけです。レッテルは固定観念となり、自分の行動を制限し、息苦しくなります。外側の現実には何の影響力も無いのに、自分で現実にネガティブなレッテルを貼るので、レッテル通りに現実がネガティブに振る舞う訳です。自作自演です。

レッテルを貼っているのは自分なのだから、自分に都合良く張り替えれば良いと言うのが3次元ゲームで高得点を叩き出す成功法則。
レッテルを剥がして在るがままを受け入れるのが目覚め。
ログインしたままでいるのか、ログアウトするかの違いですが、いずれにせよエゴのネガティブな色眼鏡を外すので生きるのが楽になります。

全ての出来事に属性が無いとは、全ての出来事が等価値だと言う事です。ここですかさずエゴ登場で、自分で拵えた基準に当て嵌め「これは良い出来事」「あれは悪い出来事」とレッテル貼りを始めます。そして自分の首を締めるのです。

極端な例を挙げます。
殺人は悪だと誰もが思うでしょう。ところが戦争になった途端、正義の為の闘いだの聖戦だのと大義名分をでっち上げて殺人を正当化します。エゴが大活躍です。エゴの貼るレッテルが如何に信用ならないか判ります。そんな信憑性の無い属性付けに振り回されるのは不毛なので止めましょう。

冒頭に戻ります。
全ての事象が等価値なので、真の自己にとってはどんな些細な経験も貴重なのです。
エゴは頂上に到達する事だけを目指すので、登山道を全く楽しめません。脇目も振らず一心不乱に登って行きます。休憩すら無駄だと考えているので苦しいです。漸く登頂に辿り着いたとしても達成感を味わう暇さえ無く「この山は制覇したから次はあの山に登らねば」と言って急いで下山し始めます。勿論、景色を眺める余裕は皆無で、気持ちは次に登る山の事でいっぱいです。そして次の山頂に上り詰めても嬉しさは感じず、そのまた次に登るべき山に気持ちが飛んでいます。
受験山、就職山、昇進山、結婚山、新車購入山、マイホームの頭金山、子供の名門校入学山、老後の資産形成山、、、人生がやっつけ仕事になっているので常に追い立てられています。全ては自分で蒔いた種、自業自得ですが苦しいです。エゴが「この体験は必要」「この体験は不要」とレッテルを貼り、必要と認定した体験が極僅かなのに対し、不要と認定した体験が殆どを占めているので、レッテル通りに人生が無駄になっているのです。だから頑張っても成果が上がらず努力は報われません。自分で無駄だと決めているので、無駄を証明する現実を創造するのです。

解決策は、エゴのレッテル貼りを止める事です。わざわざ自分を苦しめるレッテルを貼り、自分を苦しめる現実を創造するなんて馬鹿げています。そんな所に労力を使うから疲れが抜けないのです。四六時中、自分を追い立てているからです。いちいち「これは良い」「あれは悪い」と裁かない事です。疲れるだけです。しかも、その良い悪いの基準が如何に信用ならないかは既に述べた通りです。不毛の上に不毛の上塗りをしているのだから、しんどいに決まっています。今すぐに止める事です。

私達が3次元世界に転生したのは、ただ体験をする為です。エゴからみれば取るに足りない体験も、真の自己にとっては非常に有益なのです。その為に、わざわざ3次元に生まれたのです。せっかく物理次元を体験出来る機会を得たのに、エゴが切り捨てているのです。勿体無い話です。死んでから後悔し、再び転生するのを何百年も何千年も繰り返し、それを輪廻と呼びますが、自作自演に気付けば輪廻は終わり、それを解脱と呼びます。簡単な事なのです。解脱とは決して遠くに有る訳では無いのです。エゴが勝手に手の届かない所へ押しやり、輪廻のエゴゲームを続けているに過ぎません。そもそも解脱や悟りが難しい事なら説法は存在しません。誰にでも門戸は開かれているのです。その為の方法が「今に在る」「手放す」等、膨大な教えやメソッドです。

毎日を蔑ろにせず、行動の1つ1つを丁寧に行う事です。なぜなら、それこそ私達が求めていた体験だからです。小さな体験1つ1つが貴重なのです。小さな体験の積み重ねが人生なのです。貴重な人生は、小さな体験を大切にする事で得られるのです。そこにはエゴが求めるダイナミズムは無いでしょうが、真の自己が求めていた全てが有るのです。