クロスビー スティルス ナッシュ&ヤング | ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

 ビートルズやビートルズのメンバーに対するミュージシャンの発言は今までたくさんありました 。おそらくこれから先もたくさん発言される事でしょう。ここはビートルズが与えた影響を記録していく場所です。

        まだ文献はあるので見つけ次第 載せますね。

 

グラハム ナッシュ

 

 

   

          ステレオガム  2022

 

   ホリーズはイングランド北部でビートルズと一緒に演奏していた。ビートルズのサウンドチェックが終わり、ジョンがハーモニカを吹いて『リトル チャイルド』を演奏した後、ポールが私のところに来て、(やあ、新曲を聴きたいかい?)と言ったんだ。「冗談だろ?ビートルズの新曲を聴きたいかって?いや、なんでビートルズの新曲を聴きたいんだ?もちろん聴きたいよ!さあ、行こう!」。ポールは私の左耳に、ジョンは右耳に「ミザリー」を歌ってくれた。それは私にとって信じられないような音楽の瞬間だった。


  彼らに会ったのは1959年の11月19日だったと思う。最初は彼らに何の印象も持っていなかった。こんなことがあった。マンチェスターで美しいギグがあった。キャロル リーヴィスというカナダのプロモーターがイギリスの町にやってきて、その町で最も人気のある10人のパフォーマーを見つけ出し、彼らに歌を歌わせ、ショーの後に全員をステージに集め、最も拍手を受けた人が勝ち、というものだった。

 

 

   この興味深い夜を聴いてほしかったな。神様にテープがあればよかったのにな......。まず最初に、私とアラン クラーク、59年当時私は17歳だった。コンウェイ トゥイッティの "It's Only Make Believe "を歌ったんだ。その夜、私たちは優勝した。アランと私はもちろん、後にホリーズを結成した。フレディ ギャリティという子がいて、フレディ&ザ ドリーマーズになった。ロン ウィチェリーというエルヴィスのパフォーマーみたいな子がいて、ビリー フューリーという名前だった。そして、リバプール出身のジョニー&ムーンドッグスという4人の子供たち。さて、それからだ。。。。僕とクラキーが勝った。ムーンドッグスは "Think It Over "というバディ ホリーの曲をやった。彼らはマンチェスターからリバプールに戻る最終バスに乗らなければならず、最終バスは9時30分発で、ショーが終わるのは10時だった。だから、ステージに上がって他のみんなと一緒に審査を受けることができなかった。優勝していたかもしれないのに、彼らは優勝できなかった。


  ビートルズがすごい人気になるのは目に見えていた。私は以前、後にオアシスという名前になるTwo J'sというクラブでアルバイトをしていた。ビートルズが演奏するというので、4時頃に革ジャンを着てサウンドチェックに行った。女の子はみんな彼らにパンツを投げつけたよ。もちろん、比喩的な意味でね。でも、この4人の子供たちが一緒に何かを持っているのは明らかだった。つまり一緒だった。彼らは離れ難かった。彼らは一緒にバンドを組み、一緒にいた。

 

 

             ローリングストーン誌

        

 

  ベッドに寝転がって月曜の夜のフットボールを見ていた時、ニュースを聞いた。ニュースを知らせたのはハワード コーセルだった。何度も会った事がある人が死んだために気が動転したことを別にすれば、まず第一に思ったことは、どれだけたくさんの彼の頭の中にある歌を聞けなくなったんだろうか、ということだった。

 

 

  ジョンのことはビートルズがデビューする前の1958年ごろから知っていた。はじめて実際に彼に会ったのが1962年、場所はリバプールのキャバーン クラブだった。ホリーズはビートルズと一緒に演奏していたんだ。ああいったけた外れの連中はみんな、いつも最先端にいた。それに時々ぶっ倒れるし、時々空を飛ぶ。ジョンが残したものは、ごく普通の人たちに出来る限りの敬意を払ったことだ。敬意と尊厳と、存在意義のある歌の為に彼は闘ったんだ。

 

 

                      ステレオガム  2022

 

◎All You Need Is Love」のビデオがレコーディングされたとき、あなたはその部屋にいましたね。

 

  土曜の夜のミュージシャンってものは明らかにパーティーをしているんだ。私も同じだった。ベッドに入ったのは朝の4時頃で、日曜日の朝9時頃、珍しく電話が鳴ったんだ。ポールからだった。彼はこう言ったんだ。『やあ、今日この後、アビイ ロードでみんなとやることがあるんだけど、来るかい?』って。僕は 『何なんだ?』彼は、『世界中のすべての国が自国を代表するミュージシャンを出すんだ 』と言った。イギリスはもちろんビートルズだ。それは素晴らしい響きだ。私はビートルズの公演を見に行った。観客席はとても美しかった。たくさんの人がいた: キース ムーン、ミック ジャガー、エリック クラプトン。大勢の人たちだ。ポールは親切にも私を招待してくれたんだよ。

 

 

 

 

          ロック セレブリティー 2023

 

  音楽的な最終目標?一つだけあるよ。いつか、ポール マッカートニーと一緒に、アコースティックギターと2人の声だけで『Yesterday』を歌いたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スティーブン スティルス

 

 

◎マナサスが1972年にロンドンのレインボーで演奏したとき、あなたはイギリスに住んでいました。


  パートタイムだよ。 リンゴ スターのブルックフィールズの邸宅を10万ポンドで買ったんだ。彼はピーター セラーズから買ったんだけど、サリー州の株式仲買人エルステッドの所に住んで、イギリスで一番ロックンロールを楽しんだよ。刈りたての草と春の空気、すべてが大好きだった。クリケットもやったし、ルールも知っている。実際、今でも大きな試合はSkyで見ている。


  イギリスが大好きだった。道路が空いていれば、ベントレーやローラーでドライブもできた。だから今、君は私がクソトーリーだと思っている!ロンドンのたまり場 Bag O' NailsやRonnie Scott'sでくつろいだ。私は幸せな男で、私の仕事がそれを示していた。世間では、私は仕事人間だと言われるが、私は自分のギグに取り組んでいた。邸宅の門に鍵をかけ、コックを呼んで、死ぬほどリハーサルをした。私は不眠症だったから、夜中に彼らを起こして演奏した。でも、そのときはもう目が覚めていたかもしれない。


◎マナサスを結成したのは、CSN&Yでの経験に疲れたからだと言っていましたね。



クロスビー、スティルス&ナッシュは象徴的な存在になった。それが個人としての私を押しつぶした。私は他のことをやってみたかった。デヴィッド クロスビーは有名になることを楽しんでいたし、そのために懸命に働いていた。あのバンドがイギリスに来て、ロイヤル アルバート ホールで演奏したとき、私はすぐに、みんなが私より限りなく有名だと気づいた。私はというとあまり有名にならないことで、息抜きができたんだ



◎あなたはサリー州を拠点とするスーパースターの常連になりましたね。

 


  アップルのためにドリス トロイのアルバムを作ったこともあった。そして、最初のソロアルバム『Stephen Stills』を作ったときには、ジョージ ハリスン、リンゴ、エリック クラプトンらとつるんでいた。ロニー ウッドの家での2年に1度のパーティーの合間に、エリックが家に寄ってチクチクやってきて、たくさんの仕事が片付いた。ロニーから招待されたことはないけどね。



  ビートルズが解散しようとしている間にアップルに行くのは、フロリダから来た子供にはヘビーだった。ビートルズと一緒にスタジオに?え?って感じで。彼らが僕に言ったんだ。「さあやろう。君のやり方で」。とても肯定的で納得したよ。でも、彼らはこう言ったんだ。 「でも、あまり成功しすぎるなよ。ここは小さな島だから、トップに立つには十分なスペースがないんだ。」


◎最初のソロ アルバム(1970年)では、クラプトンとジム ヘンドリックスにそれぞれ『Go Back Home』と『Old Times, Good Times』で演奏してもらうという一大プロジェクトを成功させましたね。



  カリフォルニアでは、ジャズというテーマがあって、誰もが他の人のレコードに参加できたんだ。私の他のグループはすでに売れ行き好調だったから。ある晩、偶然エリックに会って、彼がやってきて、その夜はチャンプのテキーラを延々とジャムることになった。それからスタジオでアルバム曲を作った。彼のソロはワンテイクで、素晴らしいサウンドになった。彼の最高のソロ?私にインスピレーションを与えてくれた。40年後、私は彼の真似ができるようになったかもしれない。ヘンドリックスは神だった。彼の演奏を間近で見たし、バンドを従えての演奏も何度も見た。いつも驚かされる体験だった。奇妙なことに、私が彼のレコードで見たようなマジックは、あの曲には全くなかったように思う。

 

 

◎バッファロー スプリングフィールド、CSN&Y、初期のソロアルバム、そしてマナサスと、黄金期が続いた後、あなたにとって物事がうまくいかなくなりましたね。


  ああ、『ジュラ紀』だね。みんながやっていることをやるのが楽しすぎた。みんなに偉大なロックスターの一人だと言われたのに、ちょっと無能になってしまった。マナサスでは少しクラッカーになった。何でもやりすぎた。音楽はいいんだけど、歌詞を忘れてしまって、とんでもない歌詞を作ってしまったんだ。モンティ パイソンとは違うんだけどね。その後、アメリカで私は闇の力に引き戻され、その後の数年間はぼんやりとしたものになった。結果は気にしなかった。お金は流れていたし、おいしいものも手に入った。だから、経営陣がお金を盗んだとしても、それを見逃すことはなかったから、気にしなかった。私は非常に悪い決断をした。イギリス人がいつも私に思い出させてくれるように、ニール ヤングが現れて私の雷を盗んだ。でも、誰が彼の話をしたいんだ?
 

 

  うーん。。。そうだろうね。私はニールが大好きだ。私は最近、南サンフランシスコにある世界最高の自動車製造工場で彼を見かけた。彼は全長19フィートの1959年製リンカーン コンチネンタルに搭載する電気/ハイブリッド エンジンに取り組んでいた。彼はそれをほとんど何も使わずに走らせている。ガソリンを大量に消費するゴージャスなホットロッドの隣でそれを見るのは面白い。ニールはひとたび何かに夢中になると......ギタリストとして、私は彼の奇妙さが大好きだった。皮肉なことに、バッファロー スプリングフィールドでは、私が狂人である間、彼はじっと立って演奏していた。今の彼はエネルギーに満ちあふれている。あの頃はもっと運動神経が良かったから、そのツケが回ってきたんだ。でも、彼と私がたまに解き放たれるのは、今でも大好きだ。私たちはいつもいいチームだった。

 

 

 

 

 

 

デヴィッドクロスビー  (ギター ソングライター ヴォーカル  バーズ)  

 

 

 

 

                      2019年 ツイッター  (ツイッターでビートルズファンの質問に答える)

 

 

◎ここで聞くのもなんですが、あなたはもうビートルズの(ゲット バック)をもうご覧になりましたか?もしそうなら、どう思われますか?多くの人にとって、ビートルズとその軌跡を知るための最良の機会ですよね。

 


 私はそれをもう見ているよ......空気がナイフで切れるほど濃いね......私はそこで何が起こっているのかを知っているので話すことはできるんだけど、それについて話すつもりはないんだよね。

 

 

◎(ゲットバック)についてお尋ねしていいですか?バンドのメンバーではない人が、リハーサル中にバンドの真ん中に座っているのは普通のことですか?

 

 

  決してないことだよ。

 

 

◎(ゲットバック)の第1話しか見ていませんが、ジョージの問題は、私が思うにポールとジョンの強烈な絆と友情に対する嫉妬(取り残された感)だと感じるんですが。どう思いますか?ビートルズは彼らのケミストリーが全てですよね。美しい。

 

 

  実はもう、あの時点で、彼らはそれぞれお互いを憎み合っていたんだよ。

 

 

◎あなたはビートルズの中で最も優れたソングライターは個人としては誰だと思いますか?歌詞、アイデア、メロディー、そしてステージでの存在感に基づいて考えて答えていただけますか? ジョンレノンですか? マッカートニーですか? それともジョージ ハリソンですか?楽器を演奏する能力で決めるのはやめましょう。その面ではポールが優位でしょうから。

 

 

  みんなよかったけど......マッカートニーだね。

 

 

 

 

       ナイツ ウィズ アリスクーパー  2022

 

  

  ポール  マッカートニー は、バーズが初めてイギリスに渡ったときから僕らに親切だった。家に連れて行ってくれたり、パーティーに招待してくれたりした。覚えているのはマッカートニーがソーホーのどこかでのひどいギグから、ミニクーパーで家まで送ってくれたことだ。血まみれで、虫が湧いていて、ひどい場所でのギグだった。でも彼は「ああ、そんなに悪くはないんだ。そこで3、4回演奏したことがあるんだ!」と言ったんだ。

 

 

  そして今から2、3年前のことだけど、僕はバーバンクにある大きなリハーサル施設にいた。比較的新しい曲で、かなり激しい曲をやっていたんだ。その時、夢中で目をつぶっていたよ。誰もいない大きな部屋に自分とバンドだけなのに、非常に上手くいっていて、失敗したくないと思う瞬間のひとつだった。曲の終わりまで来ると、一つの手拍子が聞こえてきた。目を開けて見上げると、それはマッカートニーだった。彼はずっとそこに立っていたんだ。彼は隣の部屋でリハーサルをしていて、私に会いに来た。彼は私とバンドを部屋に招き、彼の食料品をあさりながら延々と話をしたんだ。彼は私たちにとても親切だった。彼は、私が60年代に初めて会ったときと同じように、今でも誠実な男(real man)なんだよ。

 


  彼らは高級学校出身の控えめなインテリではないんだ。街に出ていて頭の切れる子供たちだった。つまり本当の賢さだよ。そして、とてつもない才能を持っていた。で、彼らと付き合うのは大変だったよ。プレッシャーも大きかった。彼らにとって、5分でも自分の時間を作るのはとても難しいことだったからね。私が彼らと過ごした時間は、ごく個人的な、普通のことをする時間だった。ギターを弾いたり、プールサイドで寝転んだり、話をしたり、録音した曲をお互いに演奏し合ったり......。大したことではないからこそ、より貴重なんだよ。ジョン レノンに彼が見たこともないようなコードを見せてあげるのが好きだったな。いい猫たちだったよ。そして、彼らは私たちにとても親切だったってことだ。ライブから家まで送ってくれたり、夕食に招待してくれたり、ライブに来てくれたり。彼らはとてもいい人たちだった

 

 

 

         ステレオガム  2022

 

 

〇『エレノア リグビー』1966年


  他の誰も彼らについて書かなかった。孤独で年老いて凍りついた場所に住む人々のことを書くような心のある人物は他にはいなかった。誰も彼らについて書かない。私たちは輝かしい、勇敢な、普通の人生ではない大人物について書く。ひどい痛みを抱えている人々についても書くだろう。私たちはとても劇的なことを書く。でも、小さくて、冷たくて、古くて、辛くて、孤独なことは書かないんだよ。とても勇気のいる文章だった。優しい歌だ。静かでとても美しい方法で書かれた慈愛に満ちた歌だった。

 

 

  クレム フロイドというイギリス人の友人が、ビートルズの最初のレコードを家に持ってきて、(これは信じられないだろう。 )と言ったんだ。それを聴いたとき、私は本当にびっくりしてしまった。それは私を完全に狂わせた。そんな感じのロックンロールは初めてだった。そして、ポール マッカートニーは他の人とは違う書き方をしていた。彼は何も考えずに「Paperback Writer」なんかを書けるんだ。他の人間とはとても異なっていた。他のみんなは、女の子のおっぱいとか、自分が経験した明るく輝くようなことを書こうとしてたんだけど、この曲は暗くてミステリアスで、でも優しい。私はこんな曲は他の誰もやっていないと思った。そんなことをする度胸がある人間が他にいるとは思わなかった。私は非常に勇気のある文章だと思ったよ。

 

 

 唖然としたよ。あんなに彼らが早く成長するとは思わなかった。あんな連中にアシッドとマリファナを与えたらどうなるのか、私には理解できなかった。彼らは私に言った (ああ、まあ、これを聴いてくれよ。)彼らは狂ったようになった 見事にイカレてしまった。つまり、自分の意識が拡大させたかのように、自分の世界も大幅に拡大させたってことだ。その時、幻覚剤を飲む方法だけではなく、さまざまなレベルで意識を拡張させるためのインスピレーションを与えてくれたんだ。私はそれから今までとは違う形で人間を意識するようになった。



  晴れた日の午後にドライブしていると、「Day Tripper 」を聴きたくなる。でも、もし感情を揺さぶられたいなら、「Eleanor Rigby 」がぴったりだ。「She's Leaving Home 」も大好きだ。この曲も同時期に作られた、とても勇敢な曲だと思う。とても感情的に成熟していて、とても大人で、そしてとても美しい。ポールマッカートニーはとても感情的なものをとても勇敢に扱ったんだよ。

 

 


 

 

               ローリングストーン


 その時自分がどこにいたのか思い出せない。ただすごく暗い気分になった事は覚えている。ジョンを心から愛していたからね。僕らは友達だった。彼は頭が良くて、辛辣で、洞察力があってウィットに富んでいて、良いやつだと思っていた。


 僕らがバーズとしてイギリスに行った時、彼もビートルズのほかのメンバーもみんな、とても親切にしてくれた。面倒を見てもらったみたいな感じでその時から頻繁に会うようになった。彼らがアメリカに来ると必ず、僕は演奏会場に行って一緒に時間を過ごした。


 僕にとってジョンが遺したものは、彼の歌。。あのたくさんの美しくて素晴らしい歌だ。ジョンはとても気性が荒い人だった。。。。彼はシャイでちっぽけな人間じゃなかったね。確固たる信念を持っていて、それをわけなく表現出来る人だった。



                    
            
               モジョ誌 2012年     

 (サージェントペパーズ)のレコーディングの後に、僕がスタジオに入ると彼らはおどけて楽しんでいました。なぜなら彼らは彼らがやったことにゾクゾクしていたからです。彼らは彼らが何を作ったのかについて分かっていたんです。彼らはスタジオの真ん中に座って笑っていました。彼らは僕に(ア デイ イン ザ ライフ)をかけてくれました。最後のピアノコードの部分になると僕は我を失っていました。その後、僕が言葉を発するには数分かかりました。


 あのアルバムはすべてを変えざるを得なかったのです。あのアルバムを聴くと僕らがどこから来たのかってことを考えるのです。かつてそんなことをしたバンドがあったのかって言う種類の事なんです。本当に素晴らしかった。誰もこれほど楽曲が正しいって感じるようなアルバムを作りませんでした。そのアルバムはその後(僕たちの前に存在する道)になりました。


 僕が子供の頃にハンバーガー店で立っていたら、誰かが(デイトリッパー)をかけました。その時、彼らに対する競争心が生まれました。僕らはビートルズの(かかと)のあたりで急いでいたのを覚えています。だけどビートルズが(サージェントペパーズ)を得た後には、わかりますよね。彼らは誰よりも前、かなり遠くに居ました。彼らは可能性の枠を広げようとしたわけではなく、彼らはその枠を捨てたんですよね。それは僕にとってとてもインスピレーションを与えました。つまり、僕がしたかったことは僕の音楽に彼ら同様の自由を与えたかっただけなのです。



 ザ ビートルズは我々のヒーローでした。彼らは僕が思う僕がしたい事をしていました。

 

 

 

 


 僕はジョンレノンと親しかったです。今ではそう言う事が出来ます。僕と彼にはかなり素晴らしい友情がありました。あの時、僕がニューヨークのスタジオにを訪れる前までは。。。。その時、僕がジョンに質問するたびに(誰が)返事をしてくれたかわかりますか?だから僕は言いました。(僕とジョンはちょっと出て話をしたいんだけど。。)するとジョンは言いました。(僕が行く所どこでもヨーコは行くんだ。)だから僕は言いました。(そう。。それは素晴らしいね。ジョン。それじゃあ。)


 とてもイライラしました。彼女は彼女自身を絶えず挿入してきました。そして、絶えず自身を彼と同等の人間だと見做されようとしてきました。同等のアーティストとして。。。そして、彼女は実際に世界を変化させた人間の隣に立っていました。その事があまりにも僕をイライラさせました。そういった感情が多くの人々に起こった事なのです。