キャロルキング | ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

 ビートルズやビートルズのメンバーに対するミュージシャンの発言は今までたくさんありました 。おそらくこれから先もたくさん発言される事でしょう。ここはビートルズが与えた影響を記録していく場所です。

  

 

    ナチュラルウーマン 2012 



 私の22歳の誕生日に世の中は大きく変わった。1964年、ジェリーゴフィンと私がテレビを見ていると番組司会のエドサリヴァンがビートルズを紹介したのだ。演奏は絶叫するファンでほとんど聞こえなかったが、彼ら(ファブフォー)が一曲目を演奏し終えた頃にはアメリカ中のティーンエイジャーは髪の毛を伸ばし、ギターを弾こうと決意していた。


 
 リヴァプール出身の4人は焦燥感をつのらせるアメリカの若者で肥えた土壌に劇的な社会変革の種を植え付けていったのだ。インタビューにおいての4人による無礼な受け答えは多くの若者に(そうだ!奴らみたいな恰好がしたかったんだ。やつらは自分の思っていたことを口に出している。)と気づかせた。



 そして若い男の子達はビートルズになりたがると同時に女の子たちは。。。まあ分かるだろう。ビートルズの社会的衝撃を支えているのはあの素晴らしい音楽だ。キャッチ―なメロディー、スマートな歌詞と想像力に富んだハーモニー、そして効果的なアレンジによる音楽。


 ビートルズとなると熱狂的ファンのなかには限度を心得ないものもいる。そうだ。私にも彼らの心理はわかる。1965年に初めて彼らに会ってから私も彼らのファンになっていた。



 ある日、(ビートルズに会いたい?)と言われると(もちろん)と言った。



 ビートルズのスイートルームに着くと中では騒々しいパーティーが繰り広げられ、そこにはおびただしい量の食べ物や飲み物に部屋中に蔓延する煙、そして私は知りたくなかったが高い確率で薬物もあっただろう。私はすぐにビートルズの4人に会うという目的に向けて動き始めた。

 私にはアドバンテージがある。ビートルズの初期、ポールとジョンは(イギリスのゴフィン=キングになりたい)と言った、と報道されていた。この発言で私は彼らが作曲家としての成功を願っているのだと理解した。私はその讃辞に感謝し、招待されているわけではない私がこのスイートルームにいることで、私たちへの尊敬の念、気持ちが消えないことを祈っていた。

 

ビートルズのゴフィン=キングカヴァー

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=ZYr-jagJzF4

 

https://www.youtube.com/watch?v=XXayx3WBotk

 

 

 


 グルーピーや取り巻きの群れをくぐりながら、一人目のビートルを見つけた。リンゴスターだ。私は自己紹介し、彼は私の事を知っている反応で返してくれた。良かった。彼にアメリカへの歓迎の言葉を伝えると彼は独特のリヴァプール訛りで返してくれた。そして誰かがリンゴに手を振ると彼はそちらへ向かって行った。


 
 そこからそう遠く無い所にジョージハリソンを見つけた。彼の話し方は優しく、物静かで簡潔だった。どうやらジョージは社交的なタイプではないようだった。



 次に会ったビートル、ポールマッカートニーはおそらくこのバンドで唯一社交的な人間の様で気が合いそうだった。彼は私をこの場でばったり会ったというよりもまるで懇親会で顔を合わせた様に親しみを込めて歓迎してくれた。そしてどんなにジョンレノンと彼がゴフィン=キングの楽曲を楽しみ、尊重しているのか、数分かけて具体的に曲名やグループ名を挙げて説明してくれたのだ。その後、お決まりのパターンの様に誰かがポールを呼び寄せ彼はそちらに向かうのだが、彼はそこへ行く前に私の両手を握りしめて(来てくれてありがとう)と言った。

 


 最後に見つけたのはジョンレノンだった。何人かの女性に囲まれどの女性も彼の妻ではないようだった。彼は何と表現したらいいのか。。。。

 ハイだった。


(こんにちは ジョン。私はキャロルキング。。)と言いかけると彼は私の言葉を遮るようにとても失礼な言葉をかけてきたのだ。何を言われたのかは具体的には憶えてないけれど、言われた時の気持ちは今でもよく憶えている。私は友好関係を申し出たのに彼は私に平手打ちを喰らわせた。もし、私がジョンの無礼な言葉は当時の生活への反抗心の表れだと理解を示せられる程の大人ならそれほど深刻には受け止めなかったかも知れないが、私は23歳でまだ若く、その言葉に深く傷ついてしまった。

 もうそれ以上、このスイートルームにとどまる必要はなかった。しかしまさかジョンレノンから11年後に無礼な態度を取った理由を聞かされるとは思ってもいなかった。



 

 1958年 秋に ニューヨーク市立クイーンズカレッジに入学したとき、同級生だったアートガーファンクルとポールサイモンの存在は知らなかった。1958年 私のシングルの失敗に先立って ビッグレコードという小さなレコード会社から彼らの(ヘイスクールガール)が発売されていた。そのシングルはトップ50に入りヒットとみなされていた。
 
 ポールサイモンと私はすぐに友達になった。私たちの共通点は1942年生まれである事、ポピュラーミュージック界で作曲、そしてレコーディングに携わりたいという意欲だった。小遣い稼ぎを期待して私たち二人は(カズンズ)の名前でデモテープ制作をするようになった。ポールサイモンはベースとギターを弾き、私はピアノを。そして二人とも歌を。彼の曲や私の曲だけでなく、他人の曲のデモ制作も行った。収入はわずかだったが全く金にならなくてもやっていただろう。

 ポールサイモンと私は共作することはなかった。その理由を2006年に彼に尋ねたとき彼は(自分が他人と共作が出来る人間だとは思っていなかった。)そして(作詞の才能がないと思っていた)と教えてくれたが、1966年に(サウンドオブサイレンス)が全米一位になった時点で彼は自分の作詞の才能に気付いたことだろう。

 1958年、私はまだ歌詞も書いていたが、一年前と比べて大した進歩はなく、自分より作詞技術をもった共作者を必要としていた。

 

 

 

 

 


 

(ダコタに来て)何よりも思い出深いのは、ジョンが幸せいっぱいに輝いていたことだ。白一色でクールな背景の住まいでジョンは妻とくつろぎ、なごやかで社交的で満足そうだった。ビートルズ時代の(浮気娘)やソロの(真実が欲しい)で見られた怒れる作曲家の面影はその頃にはもうなかったのだ。

 (実は僕は主婦業を楽しんでるんだよ。)ジョンからはリヴァプール育ちの名残がはっきり感じ取れる。リヴァープール人はニューヨークに来ても、いつまでたっても春の次に来る季節のサマーの事を(スーマ)と発音する。ただし、ポールは例外だった。見たもの聞いたものを何でも真似できるポールは、意図的にリヴァプール訛りを封印する才能を持ち合わせていた。ジョンはリヴァプール訛りのまま続ける。(世の中はみんなヨーコが僕を音楽から遠ざけて僕の才能を奪っていると思っているんだけど、主夫であることは今の僕の才能でもあるし、僕が楽しいからいいだろう。男にはやりたいことをやる権利がある。そうおもわないか?)

 それは質問ではなかった。その発言は私よりもむしろ一緒にいた私の夫をより共感させた。なぜなら彼はヨーコと同じ立場だったから。

 その部屋には私だけに見える幻影があった。その幻影がひどい態度をとったジョンの事を思い出させるのだ。私は深呼吸をして聞いてみた。(ジョン、昔私と会ったことを覚えている?彼は(どうだったっけ)と言った。(1965年にワーウィックホテルで会ってるのよ。私が自己紹介した時あなたはとても無礼だったの。どうして?)彼は少し間をおいてこういった。(本当に知りたい?)彼は覚えているのだ。

 

 

 彼は言った。(怖かったからだよ。)私は驚いて彼を見つめ、よく理解できないでいた。彼は続けた。(君とジェリーはあまりにも偉大な作曲家だったから、見下されないためには何を言っていいのかわからなかったんだ。だから自分を楽にするために気の利いたことを言おうとしてたんだよ。)


 今度は私の方がバツが悪かった。

 ジョンはそれから私の夫の話を聞いた。彼は私とジョンに自分は(サバイバリスト)だと断言した。

 ジョンは(なるほど)といった。(でも、僕にはできないなあ。僕には米があるにしても。ほかのみんなはどうすればいい?)

 ジョンの意見は私に感動を与えしばらく思考回路が止まるほどだった。ほかにも彼は何か言っただろうが覚えているのは彼の慈悲深さと彼の言葉が私を毛布で包んでくれたその感触だけだった。彼の幸せの輝きと内なる平和の中に身を置いてみて、もしジョンレノンが他人の意見をすべて無視して自分の好きなように愛と慈悲に満ちた人生を生きるなら、私にも出来るはずだと感じた。

 神様 どうかこの善良な男をお守りください。その時、私はそう思った。善良な彼は幸せな日々をこの後5年近く楽しんで、ダコタの外で男に殺されるのだ。1976年のあの夜、私と時を共にしていた男はとても有名で人気があり、驚くほど地に足が着いていた。彼の(イマジン)がどれだけ私にインスピレーションを与えたか、伝えておけばよかった。


     

            タイム誌 1995年


◎ビートルズに会ったことはありますか?


 ええ。最初は1965年の事でした。


◎気に入っているメンバーはいますか。


 4人ともみんな素晴らしいけれど、やはりポールマッカートニーとジョンレノンです。レノン=マッカートニーのそれぞれの楽曲を聞けば二人の人間性が見事に投影されていると思います。彼らがあれほど多くの素晴らしい楽曲を書けたのは彼ら自身の内容の多さが理由だと思います。

 私が振り返ってみて思うのは、一生で人間が書く事が出来る素晴らしい曲の数は最初から決まっているのではないかという事です。レノンとマッカートニーはそれが他人より圧倒的に多かったという事なのです。

 人々は才能という言葉で自らの至らなさから逃れようとします。しかし、事実は自分の中に語るべき何もないのなら、素晴らしい楽曲はかけないという事なのです。なぜなら楽曲とは人間が自らを表現することに他ならないからです。

 私は二人の音楽を聴くたびに数度しか会っていない二人の人間性を思い出す事が出来ます。
 

 

 

 

 

          ナチュラルウーマン 2012年


 1990年私はシティーストリートツアーで東京に来ていた。そしてオフの日に私の仲間たちが私を手招きして興奮して言うのだ。(ポールマッカートニーと彼のバンドが今夜 東京ドームで演奏するんだ。君は行きたいか?)って。


 私は言った。(もちろん 絶対に行きたい。)

 


 腕時計を見てツアーマネージャーは(10オア テールズだ)って言った。10分で準備するか。テールライトを見送るかという意味だ。遅刻するものなどいなかった。



 会場に着くとワゴン車から一斉におりてチケット売り場にいった。私の名前で12枚チケットが用意されているはずだったが、チケットが無かったのだ。バンドメンバー スタッフもみんながっかりしてチケット売り場から離れたが、ツアーマネージャーと私は同時に楽屋口に向かった。楽屋口には数段階警備が敷かれていた。私の名前を使って警備を通ったが最後の警備を通る事が出来ない。開演まで数分しかないのに私たちは楽屋に隣接する待合室で行き止まり状態になっていた。すると突然、待合室の一番奥のドアが開いて何人かの男たちが楽器を持って歩いて出て行った。その時ベースギターを手に持った男が視界に入ってきた。もしかして。。。。? 間違いない!!

 (ポール!)私が声をかけるとポールマッカートニーは足を止め、私をじっと見つめる。(もしかしてキャロル?)(そう 私よ。 元気?)(すこぶる元気だよ)と言いながら待合室に足を踏み入れると、ポールはリンダの手をとって引き寄せ、(リンダは覚えてるだろう?)と紹介した。

 もちろんリンダは知っている。リンダを知らない人なんているのだろうか?私は知っているだけではなく何度か公の場であったことがあった。ただ会話をしたことはない。彼女とポールの周りには、いつもあまりにも大勢の人が挨拶をしたり、写真を撮ったり、取材をしているから、(ハロー)以上の深い会話をしたことが無かった。

 ポールは言った。 (僕らはこれからステージなんだけど席は要る?)私は言った。(実は席があるはずだったんだけど、来てみたら無かったの)彼は(問題ないよ。いくつ必要?)って言った。(12)私は申し訳ない気持ちで答えた。ポールは彼のアシスタントに私の事を指示し、こう言った?(いつもコンサートが終わったらすぐに会場を出るんだ。あとでみんなで僕らのホテルにこない?)そしてリンダの手を取り(よし。それではまた後ほど会おう!)といってステージに向かった。


 私に席を用意してくれたチケットブローカー(彼は音楽史に名前を残したバンドの元メンバーだ。)は二分以内に観客の前に姿を現すだろう。

 

 その時も、そして今も私はポールが母親の胎内から演奏しながら生まれてきたのだと信じて疑わない。彼は誰よりも音楽的で社交的で、なおかつ完全なプロ意識そしてミュージシャンシップを持っていた。そして観客から何を求められているかを理解したうえで、それを与えてくれるポールマッカートニー。

 あの夜、彼は日本のファンに(ポールマッカートニー)をプレゼントしただけではなく、他の三人無しでも、可能な限りビートルズに寄り添った(ポールマッカートニー)を与えてくれたのだ。

 彼はビートルズの曲、ソロの曲を演奏した後、ステージを去って行き、私は観客と一緒に拍手を強めたが、彼が(イエスタデイ)をやらなかったことにがっかりしていた。まあ、でもそれはしょうがないことはわかっている。これほど名曲をたくさん持っていると、一回のコンサートで全員の欲望を満たすのは不可能だろう。

 ふと自分の間抜けさに気が付いた。彼は当然の様にアンコールを用意していてイエスタデイは演奏された。コンサートが終わってみるとなんてダンディーな一夜だったのだろうと私は余韻に浸った。


 その後 私の仲間たちはみんなポールとリンダが恋に落ちた時のことを思い出していた。なぜなら音楽業界に長くいる私達はみんなリンダが裕福な家庭に育ち、60年代に人気ロックミュージシャンの写真家として成功を収めていたことを知っていたからだ。彼女はそのうちの一人と結婚し、多くの女性ファンの怒りを買った。彼女の演奏はかつてひどくこき下ろされていたが、東京ドームのコンサートで彼女の音楽的技術の上達に感動せざるをえなかった。特に彼女のキーボードのソリッドなリズムとポールや他の声と溶け合う彼女のタイトなヴォーカルは素晴らしかった。

 コンサート後に私たちはポールが滞在しているホテルに向かった。そこには他にもポールに会いに来ている人がたくさんいた。賭けても良いが、このツアーの移動人口がアメリカの町の人口を上回ることも多々あるだろう。



 信じられないことに今、あれほどのステージを終えたばかりだというのにポールは依然としてエネルギッシュだった。彼とリンダが挨拶をして回る姿を見て、私は二人が一緒に動くのは二人の人生そのものなのだと実感した。リンダなしのポールは想像しづらく、ポール無しのリンダもない。リンダに映画スター並みの美貌が無かったとしても、彼女には青い瞳と輝くばかりの笑顔から湧き出てくる自然の美しさがあった。彼女が写真撮影を許したロックスターたちをどうやって魅了したかわかった気がした。

 


 ポールとリンダは私たちの輪にやってきてたっぷりと時間を過ごしてくれた。そろそろ帰ろうとしている時にポールはエンターテイナーとしてもう一つの才能を発揮する。先に出演したという(レイトナイトウィズ デヴィッドレターマン)を驚くほど巧みな物真似で再現するのだ。デヴィッドレターマンとポールシェイファーを交互に演じ、二人のとらえ方は完璧。表情や声だけでなく彼のインディアナ州訛りまで真似て見せた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=UofYl3dataU

 

https://www.youtube.com/watch?v=VkKxmnrRVHo

 

https://www.youtube.com/watch?v=6913KnbMpHM

 

https://www.youtube.com/watch?v=eAR_Ff5A8Rk

 

https://www.youtube.com/watch?v=oJfrsYOp9Kk

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=eKpVQm41f8Y

 

https://www.youtube.com/watch?v=dEWuAcMWDLY

 

https://www.youtube.com/watch?v=9AucXslg6HU

 

https://www.youtube.com/channel/UCYhTgG-JXu4eANsX6H12JMQ