やってきました。あの御巣鷹山事故から40年経つという。日頃ほとんど意識しなくなってるので今日は心、想いを寄せてみたい。
事故が起きたのが1985年、たまたまその前年84年に初めて飛行機に乗りアメリカに行った。それまで高所恐怖症もあり飛行機には乗れなかった。ただいろいろあって親父を誘ってアメリカに行くことを決意した。それから様々な航空機がなぜ空を飛べるか、から始まり様々な航空機に関する本を読み漁って、強力な酔い止め薬をもらって飛行機に乗ったのだ。それからすっかり自信ができて飛行機に乗る出張も行くようになっただけで無く、その前の航空機物を読んだ影響で柳田邦夫さんの航空機事故に関する本も散々読んでいた。だから、御巣鷹山事故が起きた時には、あらゆる報道をチェックし、懸命に様々なことを知りたがっていた。
当時、被害者団体を代表されて美谷島邦子さんに連絡を取り私が勤務していた病院まで署名簿を持ってきてもらったこともある。また、数年後異動した病院には、現日赤看護大学名誉教授をされてる川嶋みどりさんが臨床看護学研究所で指導されていた。よく昼休みに一緒に食事をしてたが、なんかの時に、御巣鷹山事故の生存者の一人川上慶子さんを励まそうと、川島先生が呼びかけ人になり多くの看護師たちなどからカンパも集めたりして、川上さんに激歴のカンパを贈った。そのせいかどうかは知らないが(彼女はお母さんも保健師だった)川上さんが看護学校入学し保健師コースだと聞いたりして、身近にも感じながら、メディアの餌食にならないか、みんなで心配もかなりした。
その後、その看護学研究所に妻も一年通ったりした、川嶋先生たちのその後など多少は入っていたが、最近の動静は全く知らない。
勤、報道で御巣鷹山事故から40年と聞いて久しぶりに様々なことを思い出したりしたが、私自身悔いに残っているのが、御巣鷹山への慰霊登山に行けてないことだ。直後から何回もその機会はあったのだが、その度になにやかにやで行けなかった。今は当時と違い登山道もかなり整備されて高齢者でもなんとか登れるようになってると聞くが、こちらの体力の低下の方が先をいってる。