突然、久しぶりに郷里の高校時代の友人から電話が来た。今年の始めだったか「今年は喜寿だから喜寿同窓会やるから」と教えてくれていた奴だ。聞けば、反応がよくなくて元気がない。いろいろの事情があるのだろうが、少なからずが「附属の同窓会で忙しい」というのがあるらしい。そこで、それなら気にしなくていいよ、やりたい人だけでもやれるようにしたら」とか話していたら、元気になって、やってみると電話を切った。
それにしても嫌な話ではあった。私の郷里には広島大学附属三原分校附属小学校、同附属中学校があった。(大学の分校は早くになくなったが、小中学校は残った、その後、その附属小中学校ま、廃止の意向が示されたが市内の政治勢力、経済界あげて反対運動を起こして守っている)
当時の学齢期の子どもの世界や親の世界では、なにしろそういういう言葉はなかったが、いわゆるエリート集団として、自他共に認める学校だ。そこの小学生たちとまともに競う市内の各種大会では、隠れて頑張るが何をやってもほぼ勝てない。スポーツ系だけは勝つこともある。中学になると、塾で同席したが、そこは市内の伝統高校の副校長が内職(当時はそれで認められてたよう)で教えてくれていた。だからか附属の人が多かったので、純然たる公立中学の私は肩身が狭く、また帰りに何回か附属の連中に自転車で包囲とかされていた。そんな奴も高校で再会しても特別喜ぶでもなく、初めて会った人という感じだった。後に知るのだが、彼らは市内ではエリートだったが、高校受験ではほとんど同じく附属の福山や広島校を目指して落ちてうちの高校にきていたので、微妙な敗残者の気持ちをもっていたらしい。
それが歳をとってもまだ、表れてるようで、電話してきたやつにはすこぶる明るく、やりたいやつだけでもいいじゃない、とかいって励ましたりした。本当のこと言って、私は郷里の家もなければ、墓まで無くなって(東京へ改葬)いるので、郷里へ帰る他の理由はないのだが、彼が頑張って開催できたら、ぜひ行こうと思った。かれも時給930円で働いていると言ってたし、広島の恥は岸田総理だとも言ってた。そんな奴だったか、話した事はないが、この歳でまた語り合うのもいいじゃないか。