先月は、小田原の一夜城、沖縄の今帰仁城(なきじんじょう)、勝連城(かつれんじょう)、首里城と4つのお城跡を訪ねた。それぞれ国の史跡や世界遺産に指定されていて、個別にホームページやWikipedia などで膨大な写真や解説があるのだが面白いのは時代は多少違うが、城郭建築に時代や地域を超えて共通の表現があったことと、お城にとって防御のための仕組み、お濠や空堀と組み合わせた塀というか石積みが面白いので、簡単に紹介してみたい。
2月の中旬に行ったのが小田原の石垣山一夜城または太閤一夜城ともいわれる石垣山城。1590年の秀吉の小田原攻めの時に、小田原城の西3キロ 笠懸山の山頂に構築した。小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる。一説には、建築中、城を隠すような大きな白布を張って白壁のように見せかけて建築して、一挙に取り払って驚かせたという説もある。いずれにしても関東で総石垣の城としては最初で秀吉側2~3万人で80日で完成させたという。
【二の丸(馬屋曲輪)の野面積みの石垣】
ちなみに本丸は本城曲輪と呼ぶ。
2月下旬に訪れた沖縄では、多くのお城(ぐすくともいう)があるが、最初に行ったのが沖縄の今帰仁城跡。古宇利島へ渡ってから海洋公園んに向かう途中で、沖縄県国頭郡今帰仁村にある。入口では、予約なしで無料のボランティアガイドをお願いできる。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。中国や東南アジアとの貿易も盛んで発掘調査により陶磁器などが出土しています。1416年に中山王の尚巴志(しょうはし)によって三山を統一されてからは1665年まで琉球王府から派遣された監守の居城だったと伝えられています。石垣は「野面積み」といわれ最も古い造り方と言われています。
【今帰仁城跡の野面積みの石垣】ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれています。なだらかな傾斜面を利用して幾重にも連鎖的に連なっています。城壁の外側に一定の間隔をあけて突出部を築くことで城壁に迫る敵を横、あるいは斜めから攻撃できるように工夫されてた造りになっています。一部、修復作業はあるが、城壁などは戦争でも破壊されていないそのままなので貴重なのだとか。この城壁が張り巡らされて残って、本丸や二の丸あたりから眺める起伏がある中の城壁は、万里の長城のようだといわれており、素晴らしい。(後述する首里城が戦争で完全に破壊されたものを県や国の肝いりで長期の修復作業の結果、立派な観光資源となっているのと、比較して素朴で地元に支えられてる感が強い。
続いて、海中道路を通って伊計島へ行ってから那覇方面へ向かうとすぐにある勝連城跡。こちらも沖縄の一括の世界遺産の一部を追う制している。今帰仁と同様に起伏を活かした山城だ。
続いて、海中道路を通って伊計島へ行ってから那覇方面へ向かうとすぐにある勝連城跡。こちらも沖縄の一括の世界遺産の一部を追う制している。今帰仁と同様に起伏を活かした山城だ。
城はは、勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。13世紀ー14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王国によって滅ぼされた。(Wikipedia)その時廃城されたという。
くねり急坂での城への道と城壁構築で防御する仕組みは今帰仁などと同じだ。
【勝連城の入り口付近から城への道を望む】
最後に訪れたのが那覇市にある首里城。今や沖縄を代表する国際的な観光地となっているし、琉球王朝の宮殿を可能な限り復興して、公益法人が管理して各所へ多数のスタッフの配置がされまた売店などでの各種お土産売り場の充実ぶりなど商業主義的過ぎるところは好きになれないのだが、やはりその気になれば琉球の歴史や文化などを丁寧に学べることや一方で裏面史として、戦時中、軍司令本部が設けられたことで上陸した米軍が徹底的に攻撃をして破壊されたことも、沖縄の歴史の様々な顔を見せてくれるところだ。(すった府に質問したら、丁寧に案内され地下の指令部の出入り口の部分まではみることができた)
【首里城の城壁 約半分の高さから上が修復された部分】 ざーと4つの城郭建築の跡を紹介してきたが、沖縄の城の方が時代的には小田原の一夜城より早いが、城・城郭を曲輪(くるわ)と表現することや二の丸、本丸などの言葉や野面積みなどの言葉が共通していることや防御としての城郭建築の役割からの工夫など比較すると興味深い。
ただ、小田原城を責めた秀吉側は水陸含め15万とも21万ともいわれる大軍勢で押しかけ、上記述べたように80日かけて城まで建築して攻め落としたが、結局、動員された人海戦術の結果のように思う。同じく、同じく、沖縄に300あったともお城だが、今帰仁も勝連も難攻不落のお城なのだが、当時の人口密度からいうと、中山勢いわゆる琉球王国側の圧倒的な兵士を調達できたもので、多少の犠牲も顧みないで攻め続けることで地方豪族たちのお城は落とせたのではないかという気がした。
以上、駆け足での4つのお城の石垣づくりの紹介でした。
最後に訪れたのが那覇市にある首里城。今や沖縄を代表する国際的な観光地となっているし、琉球王朝の宮殿を可能な限り復興して、公益法人が管理して各所へ多数のスタッフの配置がされまた売店などでの各種お土産売り場の充実ぶりなど商業主義的過ぎるところは好きになれないのだが、やはりその気になれば琉球の歴史や文化などを丁寧に学べることや一方で裏面史として、戦時中、軍司令本部が設けられたことで上陸した米軍が徹底的に攻撃をして破壊されたことも、沖縄の歴史の様々な顔を見せてくれるところだ。(すった府に質問したら、丁寧に案内され地下の指令部の出入り口の部分まではみることができた)
【首里城の城壁 約半分の高さから上が修復された部分】 ざーと4つの城郭建築の跡を紹介してきたが、沖縄の城の方が時代的には小田原の一夜城より早いが、城・城郭を曲輪(くるわ)と表現することや二の丸、本丸などの言葉や野面積みなどの言葉が共通していることや防御としての城郭建築の役割からの工夫など比較すると興味深い。
ただ、小田原城を責めた秀吉側は水陸含め15万とも21万ともいわれる大軍勢で押しかけ、上記述べたように80日かけて城まで建築して攻め落としたが、結局、動員された人海戦術の結果のように思う。同じく、同じく、沖縄に300あったともお城だが、今帰仁も勝連も難攻不落のお城なのだが、当時の人口密度からいうと、中山勢いわゆる琉球王国側の圧倒的な兵士を調達できたもので、多少の犠牲も顧みないで攻め続けることで地方豪族たちのお城は落とせたのではないかという気がした。
以上、駆け足での4つのお城の石垣づくりの紹介でした。