行ってきました!蝦夷たちの信仰 アラハバキの神(花巻市東和・丹内神社の巨石) | 昼は会計、夜は「お会計!」

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アテルイや奥州藤原氏の物語りなどを読むと頻回に出てくる蝦夷達が信仰していたアラハバキ。作家により多少表現は違うが、単純に石があって(石の回りに巨石の回りに石で囲む(ストーンサークル状)などの説明が出てくる。ネットで探していたら、「アラハバキ大神の巨石」という文字が出てきた。場所はおなじみの東和(現在花巻市東和)にある丹内山神社。【写真左】解説板【写真右】胎内石
看板4胎内石
解説板にも書いてあるが、1300年以上も前から神体として祀られているが、坂上田村麻呂らも詣でてると書かれている。蝦夷にとっての神なのに、陸奥六軍の俘囚長であった阿部一族やその末裔藤原清衡らが庇護したことは当然として、敵方である田村麻呂らのことも同列に書いてある。この神社そのものが不思議なのだ。「大きな神社でありながらガイド本には載らず、訪れる人も多くはありません。」と書いてある。 坂上田村麻呂も恐れた!?アラハバキを祀る花巻「丹内山神社」
私もナビで入れても丹内神社と入れても出てこなかったので、近くのダムで検索してそこから行ったので探すのにものすごく苦労した。結果的には裏道から入って行ったみたいだったが、後で解ったのは、面積的にも大きく神社としての歴史や収蔵物からいっても一定のポジションを占めると思われるが、それなりの扱いを受けているとは思えない。パワースポットとして「紹介されているが、確かに妙な雰囲気を醸し出して、夕方だったので、早く立ち去りたくなったくらいだ。
紹介サイトを参照していただきたいのだが、神社から降りて、ちゃんとした道路があったではないかと走っていたら、さらによく参道入り口立つような大きな鳥居まであった(サイトに写真)。つまり相当な規模であったことがわかる。高橋克彦氏の「火怨」にも出ているが、最初は文字通り、原始的な土着信仰のような形で、典型的なアラハバキ神独特の石が神体の古い神社だったと思われる。Wikipedia にもアラハバキそのものに諸説あることが書かれている(省略)。高橋克彦氏の説は、島根発祥で朝廷側に追われて今の津軽地域にきて、蝦夷と物部一族はアラハバキを信じるということで切っても切れない関係を続けていくことになる。そんなことも含めて、社殿も古いなか、アテルイやモレの活躍した時代や、それらの人を誇りに、さらに100年以上も朝廷側と戦い続け、藤原清衡からの三代、四代かけての奥州藤原時代で花咲いた時代へ想いを馳せる特別な地だった。
 坂上田村麻呂も詣でていることになっているが、史実も曖昧らしいが、それにしても「征夷」を祈祷しに来たわけでもないだろう。高橋克彦氏も「陸奥甲冑記」を書いた澤田ふじ子氏などが描写する田村麻呂ならば制圧した後に鎮魂の意を表するためにアラハバキを祀る神に手を合わせに来たことは納得できる。むしろ、田村麻呂は同じ東和に毘沙門天(成島毘沙門堂)をつくり、この神社に対抗するように、また「征夷」の安定を祈願したというのが本とのことだろう。また現代まで成島毘沙門堂は多くの観光客が来るようになっているのはまさに後述のような勝者の歴史なのだが・・・。(全国の毘沙門天の多くが征夷の願いを込めたもの)
 そもそも蝦夷達が信奉したアラハバキということもあり、「勝者の歴史は残るが敗者は何も残らない」といわれるように、歴史検証や研究、保存等もいい加減で、その辺も含めて何か、市役所や県庁観光課などの支援もイマイチのようで、そのような侘びしさをもろに感じさせるのに、実際は面積だけでなくかなり大きな位置を占めていたことのギャップに哀れを感じるのだが、陸奥古代ロマンはこのようなことの連続なのだろうか・・・。