高橋克彦「火怨 北の燿星アテルイ 上・下」(講談社文庫)を読む | 昼は会計、夜は「お会計!」

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「火怨(かえん) 北の燿星
5月31日に本ブログで紹介した澤田ふじ子「陸奥甲冑記」とまったく同じ阿弖流爲(アテルイ)を主人公とした物語り。澤田ふじ子さんの時に書いたが、澤田さんが書いてから10年近くたって高橋克彦氏が書いたもの。澤田ふじ子さんの書かれたものの感動がまだ残っている6月から読み始めたが、上下2巻を読み終えるのに結構な時間がかかった。そして、このブログにどう紹介したらいいか考えていたらまた時間が経過した。実はそのうち、高橋克彦氏の時代的には、阿弖流爲達の時代から250年もたった東北を舞台にした「炎立つ」全5巻を読み始めたものだから・・・。

火怨
 これは2013年に同名でNHKBSプレミアドラマ(全4回・大沢たかお主演)で放映された。当時、制作スタッフは2011年3月の東北大震災で多大な被害を被った「東北地方の方々への激励の意味を越えて」として作ったというが、この原作を読むと、間違いなく東北地方が舞台であるのだが、だからといって、単なる励ましなど越えていると思った。当時も原作を読んでそのように驚き、NHKがよく制作・放映したと思った。そして、それ以降、蝦夷の歴史やアイヌ、熊襲、琉球など、現在は「日本」を構成している地域とはいっても民族的同一性などに興味を持つきっかけとなった書である。
 今回、冒頭消化した澤田ふじ子さんの「陸奥甲冑記」を読んで、高橋克彦さんの本書をオウ一度読んでみたくなったのだ。結果的には、澤田さんのほんの印象が強かったせななのか、以前、「火怨」を読んだときの記憶がほとんど薄れていたというか、澤田さんの書かれたものに書き換えられていたような印象だった。だから、必然的に、あらためて澤田さんが描くアテルイと高橋さんが描くそれとの違いについて考えながら読んだ。
 全体としては、澤田さんは他の時代小説でもそうだが、蝦夷が置かれていた時代的背景が非常に詳しく描かれていた。それに対して、高橋さんは蝦夷が当時どのように朝廷や都で受けとめられていたのか派、もちろん書いてあるが、澤田さんのような克明さはない。むしろ、征夷軍と蝦夷軍との戦略を克明に描きあげながら、また兵士たちの選抜方法から鍛錬の方法なども詳細に書いてある。時代劇の個別の決闘シーンや剣劇シーンもないわけではないが、もっと大きな征夷郡対蝦夷軍の作戦は、先頭ものを読むようなわくわく感がある。そこで、途中で、今の地図ならどの辺かと感がることも多かったのだが、当時の東北地方の地図を手に入れられていなかった。読み終わる頃に、実はようやく手に入れることができた。
 北の燿星阿弖流為マップ  グーグルマップに連動した当時の蝦夷たちの暮らしていた地域や柵(城)や朝廷軍側の多賀城など国府があった場所や川や山など、この本を読むのにこれを手元に置いて読んでいただくと(適当な大きさに拡大しては印刷しておくか、URLからお気に入りに登録)大変興味深く読めると思います。私も個人的にはこうした「知己を個別訪ねたいと思います。

 さて、阿弖流為と朝廷軍との戦いは最終的には坂上田村麻呂が征夷大将軍になって彼の人徳もあって結果的には懐柔策によって、蝦夷側崩壊していくのだが、そこへ向かっていくラストに向けては、澤田作品、高橋作品ともに違いはあるが大変な見どころ(読みどころ)だ。この作品では、田村麻呂着任後、善政によって蝦夷側が崩されていく経過を意図的に流し、いかにも阿弖流為が孤立していくさまを描き、ところがそこには阿弖流為がたくらむきわめて高等戦術がかくされていて、多くの蝦夷たち、兵士たちを助けたいという阿弖流為の隠された作戦だったのだ。そして、その通りの結果となって蝦夷軍は長い戦いの末に敗れ阿弖流為と何人かの幹部が捉えられ、都まで連れていかれる。助命のために懸命に奔走する田村麻呂だが、公卿や天皇を抑えることはできなくなるとwかったときに、田村麻呂が秘密裏に死を待つばかりの阿弖流為たちにあることを行う。ここのシーンは書くとネタバレになるので書けないが、本当に滂沱の涙というか、あふれる涙をぬぐいきれない。
 澤田作品も高橋作品も歴史上の実在の人物におそらく架空であろうと思える人物を配して物語としてよりおもしろくなるようにしてあるのだが、実在の人物や歴史的事実から大きくそれることはできまい。そういう制約の中で、二人とも共通しているのが、蝦夷といわれる人たちが朝廷の人たち、都の人々から忌み嫌われ、差別されていることに怒りを持ち、阿弖流為であっても田村麻呂であっても傑出した人物として描いていることだ。戦闘上は敵なのだが、これほどに相手のことを武士として人間として今風に言えばリスペクトしていることなどは全く共通した認識で書かれている。
 
 ところが、田村麻呂の登場で征夷行動の圧勝で東北地方が平穏と平和を取り戻したかに思えた時から250年、その間、平将門の乱も平定して110年余り、朝廷にとって、蝦夷には蝦夷をもって当たらせるという朝廷の策が成功しているようにみえたが、むしろ朝廷にとって、急速に勢力を蓄え始めた平氏や源氏など武士団に警戒を高めていた。睦はしばし忘れられていたが、くすぶり続けていた灰の中に巨大の火種が成長していた、とするエピローグで始まるのが、高橋克彦作「炎立つ」五部作(壱 北の埋火)だ。今はその 弐 燃える北天 に入って、ますます東北から目が離せなくなっている。
 たまたま、今年春から、岩手、福島などを訪れる機会が増えているが、今また、さらに意識的に東北へ出かけるための手立てを考えているところだ。楽しみなのだが、そのことはまた後日。