御茶ノ水駅改築工事と神田川 受診のついでに | 昼は会計、夜は「お会計!」

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昨日、脊柱管狭窄症の診察で御茶ノ水の大学病院へ。それなりの低空飛行だがなんとか維持できてるということで、「ここは我慢ですよ」と主治医に言われた。その若い女医は私が勝負師か競技者であるかのような物言いに一瞬戸惑った。が何となく分かるような気もしたので、「ではこれからも投薬ってことで?」と念押ししたら「オペなんて状況では無いでしょう」と、昨年12月に具合が悪くなって初めて4週処方に変更してもらった。
 薬局での長い待ち時間(半端じゃない。カウンター窓口がABCと3つあって薬券にそれぞれA~Cと№が表示され、カウンター上部のモニターで確認する。そもそも只今の待ち時間は、Aは25分、Bは75分、Cは85分と表示されている。私はオール錠剤だがBでほぼ予定通りかかった。このことはかつて病院にいたものとしていつか論じたい)。
 
 夕暮れにさしかかったお茶の水橋を渡るときに前回、曖昧にしていたこと思い出してまず写真を一枚。お茶の水橋から工事用架台から聖橋を臨む。
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神田川に工事用プラットホームのようなものをできている。JRのホームページから調べたら東京で数少なくなっているバリアーフリー未対応駅の一つの御茶ノ水駅の工事は、ホームも狭く危険な上に耐震性にも問題があり、これまで課題となっていた。そばを神田川が通り工事のしようが無かったらしい。今回取る工法は、神田川に資材搬入とか工事用に臨時の通路兼工事用スペースを作り、その上でこのホームの上にホームを作り、お茶の水橋口と聖橋口をつなぐという。さらに、聖橋口の改札口の位置を橋側に変えることで、現在の改札前スペースの無さを解消するという大工事らしい。もちろん仮設工事用台は工事終了後取り除かれるらしい。
 ところでこの写真にある神田川はブラタモリでも紹介されていたが、江戸幕府が行った外堀工事の中でも一大プロジェクトだった。家康は長期政権を展望して参勤交代制や各藩の城郭建築の禁止、各藩に金と物資を供出させるための江戸改良工事を指示した。なかでも太田道灌築城の際には堀がきちんと無かったために、家康は大がかりなお堀工事を各藩に命じた。この写真の場所は本来、神田台という台地の南端だったところを人工的に掘削した渓谷を作り、平川またの名を江戸川(神田川中流域の名称)を強引に変えて隅田川から江戸湾へ注がせるという工事だ。これにより、神田上水の飲料水が日本橋方面まで伸びるとともに、江戸城北の守りが堅固になるということである(最初の指示は家康で次の段階で今に残るものは二代将軍秀忠の時代)。その工事の飯田橋から秋葉原付近までを仙台藩に命じたという。仙台藩主伊達政宗こそ江戸時代徳川の最も恐れる対抗馬だ。そこに命じて、正宗もその工事を請け負うことで幕府に恭順の意を表すことになる。40年かかった大工事。お陰で、幕府が考えたとおり仙台藩は財政的に危機に瀕したという。仙台堀と呼ばれて名誉を讃えられたが、今はその名は残っていない。単なる、神田川と呼ばれている。
 写真では左岸(外堀通り側)がほとんど見えないが、両岸とも江戸時代の工事がほとんど残されているというから、江戸時代の土木建築技術は高かった。因みに、ここうした外堀工事に動員された各藩の末端労働者は、その石垣に藩の紋所という印を石に残したという。今でも各所に残っている(ブラタモリ)。

神田川といえば、おじさんたちの世代以上の人は南こうせつとかぐや姫が歌った曲の名前が思い浮かぶ。また同様に濁ってくさかった代名詞が神田川という時代もあった。大気汚染と並ぶ高度経済成長がもたらした遺物の代表という感じだったが、見事にきれいになって、魚も戻ってきているという。

東京というところは、大げさに言えば「ついこの間まで」江戸だった街で、江戸時代の名残がまだまだ無数残っている。奈良・京都のように太古の歴史を伝えるという訳では無いが、馴染みの時代小説にたびたび出てくる地名とともに今の暮らしがあるというのもなかなか乙なものだ。今夜は荒木町にでも行きますかって、か?