ソチ五輪 メダル至上主義の報道 | 昼は会計、夜は「お会計!」

昼は会計、夜は「お会計!」

会計をキーワードにコンサル業とASP(アプリケーション サービス プロバイダー)業のメールの二つの仕事をするmoriyanの言いたい放題ブログです。
テーマは、ブログ、会計あれこれ、医業未収金管理、小説・本、エンターテイメントなどなど。

スポーツ好きにとってもそうでなくてもオリンピックとなるとテレビにかじりつく人は多い。しかし、テレビに限らずメディアのメダル何個というメダル至上主義が目に余る。もともとJOC(日本オリンピック委員会)もメダル10個が目標として掲げたこともあり、今回も相変わらずメダルにこだわっている。そこで、前半のスピードスケートでもフィギュアスケート団体でもメダル候補とされた競技・選手がことごとく外れて、今となって「意外とメダルを取るのは想像以上に大変ですね」なんてコメントししているコメンテーターまでいる。
 スポーツの国際試合などで特にテレビ中継が入るときには、視聴率を上げるために身びいきの前評判をあおりすぎて、結果が付いてこないと、このような評価が出てくる。勝手に煽っといて、勝手にがっかりして、いい加減にしてくれといいたい。
今回、女子ジャンプの高梨沙羅ちゃんが、4位となり同僚の伊藤選手とハグしたときに泣いていたが、すぐインタビューコーナーに行ったときには、涙も流さずまなじりを決したような表情で丁寧に感謝と期待に応えられなくて残念ですと懸命に話している姿に、もう涙が出た。しかも、彼女は中継でも見えていたが自分が敗退して会場アナウンスが上位者の紹介をしている時に喜んで拍手していたし、また同時にライバルと言われてきたアメリカのサラ・ヘンドリクソン選手が寄り添うように高梨選手をハグしながら何か語っていた。後でインタビューにサラ選手も「高梨選手がもっとも強い選手であることに変わりはない」と答えたという。高梨選手も「ワールドカップで一緒に転戦してきた仲間なので普通に祝うことは当たり前」と述べたり、サラ選手に対してもいつも尊敬の念を持っていると答えたという。それにしても17歳の高校生の健気な態度に感心した。(女子ジャンプ自体がマイナースポーツで今回オリンピック競技に初めて採用されたということで、選手たちの仲間意識も強かった側面があるようにも思う。男女のフィギュアスケートのようにやや成熟した競技はスポンサー、放映局などもつき商業主義の渦の中にいる団体ではこうも行かないのだろう。浅田真央をキムヨナが慰めたり、その逆などちょっと想像しにくい)
こうした質の高いスポーツマン精神がたくさんみられるのもオリンピックの魅力だ。こうしたことをもっと伝えてほしいし、身内主義でなく、海外の選手情報ももっときちんと把握して報道しないと客観的な状況が伝わらず、ただ日本選手が勝てないなとかで終わってしまう。
 メダル至上主義もひどいがもっとひどいのが、JOC会長竹田氏の息子の竹田恒泰氏(慶応大学講師)がツイッターでいったことが賛否両論を呼んでいるという。

以下、Yahooニュースより引用
 竹田氏は、選手のコメントについても物申す。「予選落ちしてヘラヘラと『楽しかった』などと語った選手」を問題視し、負けた際のコメントとして「思い出になったとか、楽しかったなどはあり得ない」としている。選手の発言くらい自由でいいのでは、との反論には「日本は国費を使って選手を送り出してます。選手個人の思い出づくりのために選手を出しているわけではありません」と返す。実際、選手1人あたりにどれほどの「国費」が使われているかは不明だが、竹田氏は「国費」に重きを置いているようで、仮に自身が国費で何かする場合には「成果が出せなくて、いい思い出になりましたなどとは、絶対に言わない」とも話している。
 ******* 引用終わり
まったく「国費で」なんていうのもおこがましいだろうが。スマイルジャパンと持ち上げられるが女子アイスホッケーなど全員がアルバイトで生計を立ててきたのではないか、オリンピック出場が決まってからJOCの肝いりで公的就活イベントを開催して、単にアルバイトの斡旋をしたに過ぎないのに選手の支援をしたかのような話になっていたことを思い出す。さらに(洒落ではない)、高梨沙羅選手のコーチが昨年、生計の道が断たなくなったからと言って泣く泣くコーチを辞退したけど、スキー連盟もJOCも何もしなかった。その時もメディアは「この時期にコーチが居なくなって大丈夫か」という程度の記事しか書かなかった。オリンピックや世界選手権に出場するような選手でも、民間企業の善意で支援されている人はいるが、多くは生活費や遠征費の捻出に家族を挙げて助けているのが実態だろう。この間の長い不況でどれだけ部活動を中止したり、スポーツ団体への支援を辞めた企業は増えた。多くの競技者が移籍先を探したり、競技生活をあきらめた人も多かった。
 ソチでもスピードスケートの加藤選手が500Mで6位でメダルが取れなかったときに、「旅費を返したい」と記者に言ったという。どんなニュアンスだったのかまではわからないが、世界の6位だもの立派なものだ。どうか胸を張って帰ってきてほしい。
そんな、竹田氏の意見に対してかどうかはわからないが、国費論に対して、日刊スポーツで為末さんが意見を寄せている。

「結果不振選手批判はブラック企業の論理」2014年2月12日
毎回起こることだけれど、選手が結果を出せなかったとき、批判が出る。その批判の中には「選手の強化費は国費から出ているものだから、当然選手は結果を出すべきだ」というものがあるが、いったい、どの程度選手には強化費が使われているのだろうか。
 強化費に関して計算の仕方にさまざまな考え方があるので、どの程度、正確なのか分からない。12年ロンドン五輪では、ドイツが270億円強、米国165億円、韓国150億に対し、日本は27億円という試算がある。ある程度のばらつきがあるとみても、日本の強化費はかなり少なく、その中でメダル数はよくやっていると言える。
 メダル数に最も影響する要素としては、人口、GDP(国内総生産)が50%程度、あとは科学技術やサポート態勢など、10程度の要素で残りの50%となっている。GDPと人口は簡単には変化しないから、スポーツ界が努力できる領域は50%の部分にかかってくる。
 メダル獲得に関して、日本はかなり不利な状況にいる。人口はそこそこながら先進国中で少子高齢化はトップを走っていて、GDPも減少しつつある。また強化費は発表している国の中では最も低い中、選手たちは努力していると言えるのではないか。夏の五輪はそれでも注目が集まり、ある程度サポート態勢が整っているが、冬季五輪は器具を使うためにかなりお金がかかるのに、サポート態勢がそれほど充実していない。
 もちろんメダル数などに関係なく、ただスポーツを楽しめばいいという考え方も素晴らしいと思う。実際にそう割り切っている国もある。その場合は強化費を減らせばいいのだが、ただしメダルは望めない。「お金はないがメダルは取れ」は少々、選手に酷な状況となってしまう。
 私は日本的精神論とは、(1)足りないリソース(資源)を気持ちで補わせる(2)全体的問題を個人の努力に押し付ける、だと考えている。結果が出せないことに批判が集まるたび、ここ数年続くブラック企業を想像してしまう。全体として足りないリソースを残業などの個人の努力で補う。「できる、できない」は気持ちの問題。それと似た空気を五輪の期間中も感じている。
 マラソンの円谷幸吉さんが重圧に押しつぶされ、自殺をしたのは1968年(昭43)だった。日本はあれから、どの程度変わったのだろうか。
******以上、日刊スポーツ引用終わり

為末さんはオリンピック招致の経済効果論と分配論などを継続的に研究したりしており、私は彼の言うことすべてに賛成しているわけではないが、こと今回の件では、竹田氏のいうような「国費で」などの意見には十分すぎる反論だと思う。しかし、大いに賛同したという意見がある一方で、「左寄りの人」とのレッテル貼りがすでに行われているのが残念だ。ある種の人には、オリンピックを国威発揚意義と捉え、そのことに抵抗するような意見には、みな「左翼」というレッテル貼りをするみたいだ。因みに竹田氏の飲用は前半を省力しているが、そこにはメダルを取る人への注意として、メダルを噛むな、国歌演奏の時に日本には胸に手をやる習慣はない、君が代は聞くのではなく歌え、直立不動で歌え、などと注文している。