5月20日、横浜のランドマークタワーで、ふみさんの結婚式に参加した。ふみさんとと始めてあったのは彼女がアメリカ留学から帰ってきた三年前の3月。故郷の福岡県まで帰ってたら就職に間に合わないという事で、東京に大きなトランクごと滞在し就活中だった。福岡のクライアント先の娘さん。お父さんから、彼女の高校時代のやんちゃぶりも聞いていたし、彼女の「ふみ」は、漢字で「史」と書く。実は、私の次男は50日でなくなったのだが「史」の字をつかい、ふみと読ませていたので、史の字を使い、ふみと読ませるセンスに共感し合ったものです。
彼女は、アメリカではコミュニティカレッジで演劇やドラマなど勉強して日本でそんな仕事に付きたいとがんばってた。私も知り合いの構成台本作家に紹介状を書いたが、やはりまっとうには相手にされなかった。
ホテル住まいも何だからと我が家につれていったりした。結局、外資系の企業に決まった。当時就職難時代なのに、何社受けたか知らないがハンディ乗り越えて良く受かった。アパート探しもアメリカからネットで東京の事情を調査してたみたいだけど、ひどい情報で、結局、業者を紹介したりしてやり直し。住まいも決まった後、その業者に挨拶に行ったら、営業マンが、彼女の根性に参りました、何しろ自分が納得するまで、次、次とある日は朝10時から、夜20時まで探して回ったと。
少ない稼ぎで場合によっては生活費の一部を田舎の両親に頼らなければいけないかも知れないと思ってた彼女は、想いと条件をぎりぎりで確認するために、営業マンと都内を走り回っていたらしい。そんな子はいなかったと驚いて居た。ともかく頑張り屋さんなのです。
そうして外資系の企業教育会社に就職できたが、英語が話せる事は何の役にも立たず、そのうち矛盾が起きてきた。苦しさを電話で話したりうちに泊まりに来て悩みも聞いた。ある頃は、 早番遅番が何日も続き夜遅く駅に着いた時にはヘロヘロでワンカップを買って一飲みしてたら、向こうからお巡りさんがきたので思わずお酒を後ろに回して隠したとのこと。そんな日はうちに帰ってもバタンキューという状態だったと。
そんな時に時々うちに泊まりに来たり呼び出して食事をした。後で聞いたら、福岡のお父さんは電話で話したりしたが、後は東京のお父さん、お母さんに頼りなさいと言ってたみたい。意識的に家族ではない人と接触させようとしたみたい。お父さんもえらい。
その後結局、仕事を変えたりした後、彼氏にめぐり合い今日の良き日を迎えることができた。
我が家には女の子がいなかったので、新郎側のはしゃぎ具合や新婦側への一方的な言い分を聞いているうちに途中から娘を嫁にやる父親の気持ちになってもう涙が滲み始めた。一見玉の輿に乗って幸せそうに見えるけど、実は苦労も多そうって思っただけで、もうダメだ。せめて福岡から来ている同級生やアメリカ時代の留学生仲間などと話してて気分転換した。
自分達の席には彼女が書いた自筆の礼状の手紙が添えてあった。そんな気配りもできるが気が強く頑張り屋のふみさんがついに嫁に行った。宴会後の写真撮影会で無言のアイコンタクトで、もうわかったからーって感じ。
娘を嫁がせたような、そんな事はないよという様な気持ちがないまぜになった不思議な感覚の夜。
新郎新婦入場の二人。