劇団民藝「マギーの博物館」の観劇記をアップしたが、私との交友の時期により意外と思われる人もいる。
だからというわけでもないが、演劇との出会いなど振り返っておきたい。
誰もがそうである様に昔のしかも田舎の子供が演劇に初めて触れるのは学芸会だ。確か四年生だったと思う。演目は「泣いた赤鬼」に、配役で私は赤鬼に決まったが、数日後先生が言いにくそうに役変更を発表された。私は赤鬼から端役になった。すぐ、またかと思った。PTA会長の横やりだ。その息子が赤鬼に。所が本番まであと一週間という所で、先生がまた言いにくそうに今度は私に赤鬼に戻って貰えないかと。私はみんなのセリフがすべて入ってる事を先生は知ってたし、学級委員長として柔順であることも先生は知ってたから。あともう一つは、我が家は商売をしてて、父母は私の学校での様子にはあまり興味を持てる様な環境になく、父兄参観日も学芸会でも来たことがなく、まして学校にクレームを付けるような父母では無いことを知っていたからだと思った。
でその年の学芸会は終わり、その学校は一年置きに合奏と劇が行なわれ六年生の時に、「田舎大名」でまた主役に。その時は、先生から紋付や袴など衣装を揃える様言われたことが印象に。当時周囲は農家と新興住宅地の中間地帯で旧家もあり、他の人は簡単に紋付袴が調達できた。新参者で商売人の家に簡単に用意できるものではなかった。初めて父親があちこち知り合いに掛け合ってやっと紋付袴を揃えてきてくれた。なぜか、真剣もあった。家でだぶだぶの紋付き袴を着せられた時に、親父の満足そうな顔とお袋がやけに笑ってた事を覚えているが、どんなできだったか何も覚えていない。
中学校は市内最大のマンモス校で50人学級10クラス。小さな田舎の小学校の優等生は、たちまち自分の位置を知ることになる。そして中学1年生の担任がなぜか部活は全員運動部に入るよう命ぜられた。どんな理屈だったか覚えてないが、全員運動関係の部活へ入った。陸上競技部へ。3年間、80Mハードルと冬は駅伝と3年間万年Bクラスだけど陸上部員として練習に励んだ(これが40年たっても活きていることはまた別の機会に)。
高校に入ってからは、小学校時代からのあこがれである新聞記者の第一歩を踏む出すべく新聞部へ。2年生の時には、高校新聞の甲子園とも呼ぶべき朝日新聞高校生新聞コンクールに入賞した。ところが、3年生になる頃、その市では、戦後民主主義教育の高校3原則の一つ総合選抜制を廃止するということで父兄会含め大もめに。父兄会と生徒会が共闘して、同盟登校という戦術(ストライキではなく日曜日に登校する)という戦術で、連日地方版を賑わす騒ぎに。そこで新聞部の出番、会心の特集号が学校側の手により、ゲラ刷り段階で発行禁止に。抵抗したが叶わず、私は部長になったばかり、部員を体育館裏に全員集め(悪ガキもたばこを吸うのは体育館裏だったが)、事の顛末を伝え、こんな学校側の意のままの新聞を出すわけ行かないから、抗議の退部をするという話をしたら、全員が同意して、血判状めいた連名・連署をした退部届を提出した。そのときの高揚感がまだ冷めやまぬ時、社会科担当のM教師から教員室へ来るよう伝言された。そのM先生とは教室以外には接点がなかったから、なんだろうと思いながら教員室へ行くと、要は「おまえ、今暇でしようがないだろう、演劇部へ席を置け、そして俺を手伝え」との事。その頃、そのM先生は学校では演劇部だが、当時盛んだった労音の市レベルの事務局長で企画・こ公演・新聞発行などすべてやってた人らしい。記事を書けて、写真も撮れて、現像から焼き付けまでできる私に目をつけたという事らしい。当時、その高校の演劇部は県のコンクールで2位入賞(かの有名な春雷で)という実力で、全国大会出場権を得たが、何せ学校が私たちが5期生という新設校で財政的にも弱く、泣く泣く全国大会出場を辞退した。同時に、演劇部員のほとんどがそのM先生の労音公演の裏方を担っていた。毎月1回、クラシックだったりポピュラーだったり、様々な舞台の裏方をほとんど高校生だけでやっていた。私もその一員となった。ただ、私の場合は、控え室やまたは開演前の舞台上で、インタビューや写真撮影をして、慌ただしく、照明室へ入るという次第。
照明室は、非常階段を伝い、蜘蛛の巣をかき分け入ったところで、今のような近代的方式ではなく、絞れば虹がでてくるし、ゼラチン紙を手で回すという照明であった。スライダックという調光器は、舞台袖で回すとバチバチ火花が出るしろものだった。ハンドトーキーもなく、1回だけののリハーサルと台本だけの手探り照明だった。それでも、ホリゾントなどにきれいなグラデーションができたり、照明の組み方で舞台が夢の世界に変わることを知った。
インカムなどあるはずもなく、舞台脇にいるM先生の手の信号や反対側などにいる照明室とのあうんの呼吸だけがたよりだった。大阪フィルとどこかのバレエ団の白鳥の湖もやったし、ダークダックス、ボニージャックス、アイジョウジ、渡辺プロの初の労音ミュージカルの初演も手がけた。ダークダックスがライブでしかやらない、「いろはにほえと」の九九だけの歌詞の西部劇に腹をかけて笑いながら照明を当てて、「照明も笑ってる」とコメントされたり、十八番(おはこ)の「ともしび」だけは、アカペラだそうで、シーンとなった会場に静かな静かな出だしから始まり、三番の歌詞の「こがねのともしび永遠に消えず」のところで、正面2台、左右4台のスポットを4人の顔に絞る(でも絞りすぎたら虹が出るのでその寸前で)、「消えずー」のハーモニーの余韻が消えるか消えないかというところで、一瞬暗転、次の「うん」というタイミングで舞台ライト全開という設定に息が詰まる思いもした。
そんな、公演・舞台経験は、毎月、刺激的で楽しい日々だった。何せ、テレビ時代の始まりで、テレビでしか観られない人と楽屋で会ったり写真を撮ったり、時には、打ち上げの場に呼んで貰えることもあったし、先にも述べたように、舞台の上に非日常空間を作り上げることができることの喜びを知った。
何人かのグループや歌手は、裏方をすべて高校生がやっている事に感動したと、最後に紹介してくれて、「高校生たちに拍手を!」といって貰えることもあった。
また、ある時、東京の日劇で専属的に証明をしているというスタッフが同行して来たときに、打ち合わせから驚きながら、終わってから旅館においでと呼ばれ、当時、照明という地味な仕事だが朝倉何とかさんという人が、紫綬褒章か何か褒賞を受けたとか、その人が熱く語ってくれた。それにほだされて照明学校に進学した奴まで出てきた。
そんな演劇部経験も新聞部復活の動きに吸収され、自校の演劇部の公演には1回も参加することなく終わった。