だからね、嫌いな人、嫌な人がいるのを見つけたら、
絶好の、追跡チャンスだと思って、
その領域侵犯の数々を、
自分が禁止して制限してきた事をまず認めて。
つまりは自分の中で忌み嫌って(嫌うがゆえに、禁止して制限してきた)その姿を体現していけしゃあしゃあとのうのうと厚かましく堂々と無神経にやってのけてるのがその人だから。
で、まずその制限をゆるめる。
あの大嫌いなあの人は私(の禁止してる要素)なんだと認める。
されて嫌だから人にするのも禁止して制限してきたその事を自分に許可する。自分は、それをしてもいいんだよと。人にされて嫌だったけど自分はしてもいいんだよと。
自分がしてもいいように、相手には断る権利も嫌がる自由もある、それは人それぞれの好みや趣味だから。
出したら嫌われるからと隠していてもいつかは出して嫌われるなら同じ結果だし、出して喜ぶ人もいるかもしれないわけで。相手がどう思うかは強要支配コントロールできないわけで。
嫌いな人だけでなく何か嫌な感じがする不気味な人とかもそうね。表に出したら嫌われる要素を隠してる。ならばもう堂々とね、出して相手に嫌われようと体現してる方がまだましなのよ実は。まだ正直だし、相手に嫌われるかどうかで自分の言動を決めてはいない、ただ心を向けてもらおうと領域侵犯はしてる。その領域侵犯で嫌われても心を向けてもらおうとしてる。
不気味な人にも自分が禁止してる要素あるのか
それはその領域侵犯したら嫌われると思って、それを制限して禁止してる自分の姿と同じだよね
だから何も禁止しない、
外の誰かを見て違和感や嫌悪感を感じたら自分の中の要素を禁止して制限してないか見つけるための追跡チャンスにする。
違和感や嫌悪感は警戒アラート。自分の禁止に気付かせるための蛍光マーカーでその人は悪役や嫌われ役をわざわざ担ってくれている。