やっとここへきて、『自分と二人きり』の良さがわかってきた。まずは『自分といたい』その上で、心の愛を自分の体に向けたまま、自分の体の望みが外に向かうならその時はその時考える
というか、その時に外の誰かと全力で関われるように、普段は、自分と二人きりで自分の体を快適に満たす
心の愛を自分の体に向けて、快を抽出し不快をなくし快適環境を選び取る。
『あの人はどうかな?』じゃないんよ。
『自分の体はどうかな?』なのよ、常に意識を向けるべきは。心の愛を向けるべきは。それを忘れてたというか、ずっと抜け落ちてた。
『あの人はどうかな?』を気にしてる時、自分の体には意識を向けてない、お留守になってるということを。
物質だから精神に観測されて嬉しい。素粒子も波だか粒だかわからない、ってのはさ、 物質は精神からうまれて自分でも自分の事、精神だか物質だかよくわかんないわけよ。観測されて、初めて、物質ぶる。『俺やで!』って。観測されて『自分は物質でいいんだ』って安心して物質らしく振る舞う、だから粒になるんだと。それ位、物質ってさ、不安定なわけよ。やっとで、三次元物質世界に物質として存在しているの。
その、『観測されて嬉しい!』誰かに認められて『お前はそこに存在している、安心してそこに いていいんやで』って誰かに観測されるのを、待たなくていいんだよ。誰も観測してくれなくても、自分だけは、自分の心だけは、自分の体に心の愛を向ける、そのために自分の体に心が宿っているの。それこそが最高の美容液。美容や美欲のためならなおさら頑張っちゃう笑。
自分の心が、自分の体を観測すれば、自分の体は喜んで、『ここにいていいんだ、存在していいんだ』って安心して物質でいられる。物質ぶる
つまりは肉体として生き生きと自分らしくなる
だから美しくなる
誰だかわかんない生きてるんだか死んでるんだか、透明人間なんだかカオナシなんだか、ってならないで済む、波だか粒なんだか、海のものとも山のものとも見分けがつかない、ってならなくても済む。体は体、物質としてここに存在していい!粒でいていい!って物質ぶれるように自分の心の愛を自分の体に向けて観測する。
心が観測するから、自分の体が物質として振る舞える。
これは、精神(心、男性性)と物質(体、女性性)の役割を自分の中ではっきり分けて、 精神である心の仕事は、物質である自分の体を観測する。これに専念するって事ね!何も観測しない、心の愛を自分の体に向けない、むしろ他人に向けてる時って、それこそ自分の体は波だか粒だか存在が曖昧で、いるのかいないのかわからない
物質としてはあるけど、それを自分の心が観測してあげてない。
愛ってね、精神が物質に向ける慈しみの心
物質は精神を向けてほしいという根源的な欲求がある、ならそれは自分の体に宿った心の愛を常に常に100%、浴びせるように自分の体に向けていればいいわけよ。自分の体は心の愛を向けてもらって安心して物質ぶる、物質として振る舞える、ここにいていいって存在できるわけよ
誰かの領域を侵犯しなくてよくなるわけよ。
誰かに自分の存在を知らしめてわからせたり、人を殺さなくてよくなるわけよ。
自分の心が、自分の体の存在を無視しないで、自分だけが知っていてくれたら。わかっていてくれたら。自分の領域で自分の心が自分の体の存在を肯定していてくれたら。心と体で仲良く通じ合っていられたら。本当にそれだけでいい
逆に言うと、『あの人はどうかな?』って外の誰かに気を取られている時、あの人はいいよ。気にかけてもらえて、観測してもらえてさ。でもその自分の体は観測しない、置き去り、無視、お留守、ないがしろってのはさ、自分はここにいるのかいないのか?波なのか粒なのか?いるけどいないようなもの、誰にも顧みられない、っていう体は存在してるけど透明人間みたいなさ。
何度も言うけど、この『誰にも顧みられない』ってのはさ、他人に顧みられなくてもいいの。他人は他人でやる事がある。自分さえ、自分の体に宿った心の愛を自分の体に向けて、誰よりも自分の心で自分の体を顧みる、気にかける、観測する、物質として認識する、自分の体が、安心してそこに存在できるように、いていいよって快適に居心地よくしてあげる、そこに全力を尽くして心を働かせる。
それが、『自分と二人きり』ということ。他人を遮断するという意味ではなくて。常に心の愛を自分の体に向けたまま、自分の体の望みや欲が外に向かう時、気持ちよく素直に全力で叶えてあげられるためにも、いつどこで誰と何をしてても、心の愛は自分の体に向ける。