解放

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新しき革新運動

 昨今は多樣性を重視するやうな思潮が無闇に橫行してゐるものだが、遠く古の暮らし振りは至つて畫一的であつた。我らが遠祖の場合、狩獵採集より農耕に移行して尙ほ簡素に生活してゐた。

 當然その時代に生きし人々に「科學認識」などいふものがあらう筈はない。然れども彼れらは寂然不動の實體たる太陽と合一せる日々を悠然と過ごしてゐたのである。

 殊に日本人は天日が產靈(むすひ)の根源なることを感得したが故に、日と靈とをともに「ヒ」と呼び慣らすのである。他方、英語に於ける「Life」は「暮らし」を意味するとともに「生命」や「活力」といふ意義も重ね持つ。原初の人類に取つては「生存すること」と「生活すること」とが同一線上にあつたのだらう。—かうして神代の暮らしに想ひを致してゐると、自づと「生命の意義」に就いて考へを巡らせるものなのである。

 然りと雖も、吾人は今の暮らしが「生命尊重以上の價値」を發見せる者たちの情熱と、削られた命の上に構成されてゐるといふ事實を斷じて忘却してはならないのである。

 善かれ惡しかれ、社會は大人物の思念に依つて組み立てられてゐる。換言するならば歷史の中に「民意」が入り込む餘地など毛頭も無いのである。そのことを知るには先づ「世論が形成される經過」を考へねばならない。

 要するに衆論は個々の意識が結晶化されて現出するが如きものに非ずして、それ以前に能動的なる少數者が人心を集成に導くのである。而して歷史に名を刻むやうな社會運動は、如何なるものでもそれなりに重厚なる指導原理を内包させてゐる。

 畢竟「前衞」と稱されるが如き理念であつても、それは原型があればこそ成立するものだ。或いは個の「經驗からなる發想」などといふものにしても、それは思想の表出なる社會に於いて縱橫に紡がれた意思に他ならない。故に一個の思想は、かく網の目のやうに交錯せる「過去の想念」が、複雜に重複せる一點に生ずるのである。付言せば思想を傳へる「主體なるもの」は、それを表現することを意圖した論辨のみに限られるものではない。學術上の論究や文藝、亦たは生活上の會話にも思想が顯現し得るのである。

 抑も「ことば」とは「音聲や文字に依つて人の感情や思想を傳へる手段」であると定義付けられてゐる。從つて「學術の眞理を傳へる」といふ行爲も、槪ね先人の苦心の傳承に他ならないのである。但し例外もある。それは諸思想の底流に息づける「意思の由來を人に求めること能はぬもの」だ。筆者は、その内の一つは理屈にあらざる歌心であり、もう一つは神託であると愚考しつゝある。

 若しもその言を嗤ふ者あらば「木を見て森を見ず」であると斷じ得る。何故かと問ふに、所謂近代思想に通底せるものが、悉くセム的一神敎に於ける信念であるからに他ならない。或いは西洋法思想も「モーセの十戒」を根幹としてゐる。之れ要するに現實の思想は科學的認識を柱としながらも、その實、相ひも變はらず「非科學」を戴いてゐるのである。而してさうである以上、筆者は「日本人は皇國傳統の靈性を思想の中樞に置くべきだ」と、斷言して憚るものではないのである。

 孟子曰く「道は爾きに在り、而るに諸れを遠きに求む。事は易きに在り、而るに諸れを難きに求む」と。但し 皇國にとり孔孟の敎へは「借り物」に過ぎなかつた。他の種々の外國思想も亦た「利用すべきもの」であつて、根本に据ゑるやうな代物ではないのである。全く以て吾人は、その順逆の理を辨へるのでなければならない。吾國が進むべき理想の大道は、他でもない吾國の眞髓にこそ發見し得る。

 實に筆者は、そのやうな了見こそが本然の 皇國を恢復せしめる突破口であると考へるものである。或いは今日の議會政治にしても「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」なる 聖旨に基づけるものでなければならないのである。

 然らば「公論」とは何であるかと問はれんに、それは「一般の人々の意見」のことを謂ふ。「意見」とは「或る問題に就ての考へ」のことである。而して茲で言ふ「考へ」とは「考へて得た結論」のことだ。言葉といふものは成るべく煎じ詰めて、その意義を的確に抽出するのでなければならない。率直に言つて、現下の日本に見られる「大衆意識」は「公論」であるどころか「意見」ですらないだらう。何故なら大衆は何ら「思考」してゐないし、用意された單純なる構造に意識を囚はれながら、徒に著名人等が發信せる所見に雷同するのみであるからだ。果たして彼らは「快・不快」の如き感情を主な判斷材料としつゝある。特にSNSの普及に伴つてその傾向は顯著さを增してゐる。斯樣なものが「世論」の稱號を與へられて、大眞面目に議會で取り上げられることに何の價値があるといふのか。

 抑も吾國に於ける「議會」の理想形は「神議り」を置いて他にはない。卽ち代議政治なるものは淸らかなる幽事を模範とすべきものなのである。然れども「議する」といふことの尊さを忘れ果てゝ、その有り難味を感じ得ぬ大衆が選出せる代議士が、神慮を無視せる「ポピユリズム政治」を行なひつゝあるのが實際の政治狀況だ。それが爲めに人心が際限なく荒廢してゆく。

 ともあれかくの如き世を江戸時代中期の思想家・安藤昌益翁は「法世」と造語した。尤も、昌益翁は若き頃禪門に學んだが故、それを窺はせるやうな敍述も散見される。但しやがてその門を去り、獨自の思想を構築せられた翁が到達した地點は、結果として「日本人らしき觀念」を基盤とせる本來の意味での「神ながら」なのであつたのだ。是れを翁は「自然直營道」と命名したのだけれども、その時代にしてみれば頗る論理性に冨める著述なのである。

 而して先生のいふ「法世」とは何かといふと、それは天の理法から遠く離れ去つてしまつたが故に人閒が墮落し、それに乘じた釋迦や孔孟の如きが「拵へものの私法」を說ける世界を指すのである。昌益翁は「獸の自然」と「人閒の自然」とを峻別しつゝ「法世とは人閒が獸に習ふが如き劣れる世である」などと斷じてをられる。

 曰く「自然の道には法は無きものなり」と。まさに「勇ましき思索の結晶」と言ふべき乎。この畏怖すべき思議は、遂に「互性」なる偉大なる槪念を生みむすんだのである。卽ちそれ「異なれる存在が對立しながらも潛在的には統一されてゐる」といふ、玄奧なる哲學である。約言するならば「相ひ對せるものは對をなしながらも相互に他者の本性を内在させ、他者の中にも自己が内在してゐる」といふが如きものである。因みに先生は「天地と人」も互性の關係にあるとし、天地は「固より人に具はるもの」にして「共に無始無終なる自然活眞の所以なり」と註釋されてゐる。

 それにしても先生の著書には造語が多い。筆者にして著しく難解であり、或る程度理解するに至るまで相當の時閒を要してしまつた。それでもめげずに苦心を重ねながら讀み進めてゆくと、それが日本人の生み出せる純然たる「日本の社會主義思想」であることに氣が付くのである。尤も「主義」と謂ふものは日本の觀念ではないし、昌益思想の基礎理念とも反してゐる。故に便宜的にその語を用ゐてゐるに過ぎないのであるが、實際それは德川幕藩體制を視野に入れた劇烈なる「反權力の思想」なのである。そのためか「昌益思想は尊王論の系譜に連なる」とする向きもあるのだといふ。

 而してこの思想の最たる特徵はといへば、誰もが齊しく己が内に持せる「直靈」を明識しつゝ、西洋思想の如き「二別」を否定してゐることにある。更らには「科學理論」とは趣を異にせるも「整合性を漂はせてゐる」といふことを擧げることが出來るだらう。筆者としてはそのことをどのやうにして解說すべきか甚だ惱むところなのだが、茲に昌益思想の特質が能く表はされてゐる一文を提示することにする。

 曰く「夜燈の明は暗夜の性なり。暗夜の性は夜燈の明なり。心の性は知なり、知の性は心。心、知、互性にして一心なり。知、心、互性にして一知なり。(中畧)此の故に互性の妙道を知らざる者は皆偏知の妄惑なり」と。

 吾人は納得もせずに自らの意志を捨て去つて了つてはならないが、他者と意見を違へることを「前提」とするやうな意識を持つてはならないのである。何となれば、それは「眞實を放棄する姿勢」であると言へるからだ。同調する場合も否定する場合も、眞摯であらねばならない。畢竟吾人は、自らに内在せる神と誠實に議を交はすべきなのである。

 かくして筆者は、何とはなしに下村湖人が「靑年の思索のために」に於いて記せる次の言葉を想起した。
『中道を步むとは、獨自の道をすてることではない。かへつて獨自の道の中にこそ中道があるのである。もしその獨自が全體の調和と創造とに役立つものでありさへすれば』

 その「中道」は、常に自らを多數派に置きたがる「輕佻なる大衆」が考へがちな「僞中道」ではない。
 亦たその言こそは「正しき公論」を育てるための足がかりともなり得ると信ずるものである。【芳論新報 令和三年二月號より】

 

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