ニコニコと笑いながらコップを落としたり

長いことトイレで寝てしまうNさんは

 

「申し訳ないわ。もうね、私、なんだかわかんなくなっちゃったの」

 

を繰り返す。

 

家族のこともうろ覚えで、毎回違うことを言う。

 

「とっても働き者の母だったんです」面会に来た娘さんは言う。

 

私達は、老人が’こんな風に’なってからしか知らない。

それがNさんであり、それ以前のNさんを想像できないから

当たり前のように接することができるけれど

長年「ママ、ママ」と慕ってきた娘さんにはショックが大きいのだろう。

 

「あんなにマジメで仕事熱心だった母が10年前からこうなって。

 父は真逆の人だったけど、最後までしっかりしていました。

 人間て分からないですね」目をうるませて言う。

 

 

老夫婦は2人で暮らしていたけれど

料理の途中で家を出てしまったりするNさんを心配して

旦那さんが施設に預けることを決めた。

その時のNさんは時々変なことをするけれど、まだ意識はハッキリしていたから

自分が家ではない「どこか」へ行くことに気づき、拒んだ。

 

「私はアナタとずっとここにいたいんです。ねえここで一緒にいましょうよ」

 

最後は涙ながらにお願いしたのだそう。

 

旦那さんと職員も、泣きながら書類に記入したのだとか。

 

 

その後旦那さんは他界。

 

Nさんはその時のこと、旦那さんのこと、覚えているのだろうか。

 

 

 

毎日毎日、夢の中を歩くように、ただ曖昧に微笑みながら

 

「ごめんなさいね。もう私、なんにも分からなくなっちゃったのよ。」

 

繰り返す。

 

悲しい記憶からも開放されて。