(11-1)華国鋒の退場と鄧小平体制の確立、生産責任制の肯定(1980年 中央) | 中国について調べたことを書いています

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5.尖閣問題の解決策を探る
6,台湾は国家か

 

 

ここで1980年の中央での、鄧小平と華国鋒の争いのその後を見ておこう。

1978年末の十一期三中全会で鄧小平が事実上、党のトップの座について、華国鋒を追い落とした。しかし、その時点ではまだ、華国鋒は党、国務院、軍の3つのトップの地位にあった。また、華国鋒を支える汪東興、紀登奎、呉徳、陳錫聯といった人物が党の政治局員や国務院総理の地位にあったし、「農業は大寨に学べ」運動を推進していた陳永貴も国務院副総理の地位にあった。この体制は1979年末においても変わりはなかった。鄧小平は、彼らをすぐに追い落とすようなことはしなかったのである。

しかし、1980年に入ると、華国鋒は徐々に政治の中心から外されてゆく。

1980年2月の11期5中全会では華国鋒を支えていた汪東興、紀登奎、呉徳、陳錫聯は中共政治局員や国務院副総理を解任された。かわって鄧小平を支持していた胡耀邦、趙紫陽が政治局常務委員に入り、万里が国務院副総理になる。包産到戸を四川省と安徽省で進めていた趙紫陽と万里が中央の要職に就いたわけである。

1980年8月の5期人民代表大会3次会議で、華国鋒が国務院総理を解任される。かわって趙紫陽が国務院総理になる。また、この時に陳永貴は8月14日に辞表を提出し、9月10日にそれが受理されて国務院副総理の職務を解かれた。陳永貴は毛沢東によって中央にとりたてられ、「農業は大寨に学べ」運動を進めるために国務院副総理の地位についた。毛沢東が去り、「大寨」が語られなくなった時点で、陳永貴が中央の要職にいる理由はなくなっていた。

 

1980年9月27日に出された『農業生産責任制を更に一歩進め強化し完全にすることについてのいくつかの問題』《中共中央印发<关于进一步加强和完善农业生产责任制的几个问题>的通知》(75号文件)で、生産責任制が積極的に肯定される。

この文書では、まず十一期三中全会以降の農業政策の調整を肯定的に評価している。自留地や家庭副業、市場での売買の制限緩和、生産隊の自主権尊重、各種の生産責任制、労働報酬の計算方式の改善などである。これによって、農民の積極性が引き出され、農業生産が増加し、多くの農民の収入が増加している状況も、好意的に見ている。そのうえで、包産到戸や包幹到戸について、以下のように述べている。

 

「6.現在、一部分の省や自治区の幹部と民衆によって、包産到戸(包幹到戸を含む)を実施するかどうかという問題について広く論争が行われている。労働と生産がうまくいくように、政策面で相応の規定が必要とされている。

我が国の多くの地区で集団経済は堅実であり、あるいは比較的堅実である。しかし、一部の地区では、主に『左』傾の政策やその他の業務上の原因で、集団経済がうまくいっておらず、生産力が依然として低いレベルにあり、民衆の生活がとても困難な状況にある。こうした状況を鑑みれば、包産到戸については地域や社隊の違いによって異なる方針を取るべきであり、適当な区別を設けるのがよい」

 

 これをみると、すでに包産到戸(包幹到戸)が許されるかどうかという議論は終わり、これをどのように実施するかという議論に移っていることが分かる。さらに、包産到戸(生産請け負い)であるか包幹到戸(労働請け負い)であるかも、すでに問題ではなくなっている。それらを全て「各種の生産責任制」という名でくくってしまって、それらを許容している。そうした考え方の変化については、以下のように述べている。

 

「辺境の山間部と貧困で立ち遅れた地区は、長い間『食糧は国から買った食糧に頼り、生産は借金に頼り、生活は救済に頼る』ということをしていた生産隊は、民衆は集団への信頼感を失っており、それゆえ包産到戸を要求しているのであり、その民衆の要求は支持すべきである。包産到戸でもいいし、包幹到戸でもかまわないし、比較的長い時間それを安定させるべきである。このような地区の具体的な状況からみれば、包産到戸を実行することは、民衆と連携し、生産を発展させ、食糧不足の問題を解決するのに必要な措置である」

 

ここで述べられているのは、農民の要望に応えるべきであるということであり、生産量が増え、食糧不足が解決される政策が良い政策である、という考え方である。これはまさに、鄧小平の「黒猫白猫」論である。

この文書では、さらに、「社」か「資」か、という議論についても、以下のように結論付けている。

 

「全国的にいえば、社会主義工業・社会主義商業・集団農業が絶対的な優勢であるという状況においては、生産隊の指導のもとで包産到戸を実行することは社会主義経済の範囲内であって、社会主義の軌道から外れたものではないし、資本主義の復権などでもないのであり、恐れるほどのものではない」

 

包産到戸も包幹到戸も社会主義の範囲内であるという結論である。

 

また、1980年11月5日に人民日報に掲載された「陽関道と独木橋 包産到戸の由来、利害、性質、展望を語る」(阳关道与独木——试谈的由来、利弊、性和前景)という記事は、「大寨」をめぐって行われた議論の結論のような内容となっている。

 

「『あなたはあなたの陽関道を行け。私は私の独木橋を行く』もし陽関道が前に伸びているのにそこを行かず、わざわざ独木橋を行くなら、それは受け入れがたいことである。しかし、もし状況がそうでなければ、そう言う人は、逆に実事求是の精神を持っている。なぜならその人は盲目的に別の人に追随するのではなく、現地の実際から考え始め、自らの道を切り開くからである」

 

「現在全国で包産到戸を行っている隊は約20%である。やるのに適当なのにやっていない隊もあるし、やるべきではなかったりやらなくてもいいのにやっている隊もある。後者の社隊に対しては試験的に許可してもいいし、2年やって実践させて結論を出させてもよい。もしうまくいかなかったとしても、それはごく少数の地方だけである。よければ、新しい経験を模索できるかもしれない。独木橋であれ、木の板の橋であれ、石橋であれ、鉄のケーブルの橋であれ、人が渡れる橋であれば、全て利用してもいいし、改造してもいいし、発展させてもいい。そうすることで深い谷のある奥山を出て、平坦で広い原野に到り、金色に輝く陽関大道を前進してゆくことができるのである」

 

ここでもやはり、「黒猫白猫」に通じるような例えで、結論が出されている。「黒猫」であれ「白猫」であれ、鼠を取るのがよい猫であるのと同様に、「陽関道」であれ、「独木橋」であれ、人が渡れる橋であればよい橋なのである。

既に陳永貴は中央を去り、大寨が語られなくなったこの時期ではあるが、ここで「陽関道」か「独木橋」かという議論に結論を出しておくということなのであろう。