孤立した若い男女の不安を通じて、人の心と体の危うい揺らぎを描く。

 

古井由吉は1937(昭和12)生まれで、「内向の世代」(自己の内面と向き合うことを主なテーマとする作家たち)と呼ばれます。読書会で取り上げるのは、2006年に発表した晩年の連作短編集『辻』以来2度目です。本文庫は1971(昭和46)年の芥川賞受賞作である『杳子』(ようこ)とほぼ同時期に書かれた『妻隠』(つまごみ)の2作が収録されています。30代半ばの作品ですが、実はどちらも同じ回の芥川賞候補作になっていたようです。(今は一作家の二作品が同時に候補になることはありえませんが)

当時の選考委員の選評を読み返してみるとこんなことが書かれています。例えば瀧井孝作は「『杳子』は何か混沌とした、暗く明晰でない、灰色の感じがする。この小説の場合には、この灰色の混沌も、小説の色どりと持味になって、密度の濃い、面白いヤヤコシさで、筆の妙味に陶然とさせられた。『妻隠』は明るく明晰で、別人の筆かと思う位に変って居た。これも佳作だが水彩画のような味で、『杳子』は油彩のようなねっとりした味の小説」と書き、また大岡昇平は「『杳子』の方が、よく書き込まれている。従来この作者の作品は、一本調子に過ぎるのが欠点だが、『妻隠』においては、視点の転換、面の交錯が、実にうまく行われている。私はこの方を推したが、むろん『杳子』も受賞の価値は十分である」と評しています。(いずれも芥川賞に関する基礎的な資料を紹介している非公式サイト『芥川賞のすべて・のようなもの』からの引用)

というように、どちらも同じくらい高く評価されていた作品であることがうかがえます。主人公たちが独身か夫婦かの違いはありますが、いずれも若い男女を中心とした小説です。その意味ではこの2作品には作者の共通した思い入れがあるように感じられます。しかし選評にもあるように同じ作者が同時期に書いたとは思えないほど文体は対照的で、特に『杳子』はまさに「内向の世代」の特徴がよく表れた作品と言えます。今から半世紀ほど前の、価値観や風潮が現在とはかなり異なっている時代の小説ですが、そうした特徴や背景の違いを味わいながら読むというのも一つの読み方かもしれません。

以下、それぞれについてごく簡単にあらすじを記します。

 

『杳子』

(一)十月半ばの午後一時頃、K岳の尾根を下りてきた彼は谷底に一人軀をこごめて坐る杳子を見た。蒼白い横顔がくっきり輪郭を保っているが、目には力がない。両腕を胸の前で組みかわしていた。彼はふと女の視野の中を影のように移っていく自分の姿を思い浮べた。

彼女は岩の上で三時間も坐っていて、谷底にのしかかる圧力を軀に感じたが、自分の中心がつかめなくなった。自分の力を岩の根もとに注ぎこむと、薄暗い光の中で生命感となって成長し幸福を感じた。足音が近づくと男が立っていた。彼は戦々兢々とよけていくが、彼女は胸の中で立ち止まってと叫ぶ。彼が右肩を差し出し、その腕につかまり歩き出す。ようやく下の宮の神社へ入る吊橋まで降りた。杳子は下の急流を見ながら渡った。

(二)一月末近いある日、ホームで電車を待っている彼を偶然見つけた杳子が駅の連絡階段を駆け降りてきた。別人かと思ったが杳子だった。彼らは出会った日、名前も告げなかった。あの頃は彼自身もほとんど家に引きこもりの自己没頭という病いだった。喫茶店で見る杳子は、艶のない肌でくすんだ精気を発散した。彼女は高所恐怖症の病気だったが山へ登り、気がつかずに谷底へ下りておかしくなったと言う。同じ年だった彼女と、翌週もその次の週も店で待ち合わせる。杳子は七年前に両親を相次いで亡くし、現在はその家で姉夫婦と暮らしている。ある日また店に向かうと彼女は入口の前でうろうろして、顔に霞がかかり、細い軀が苛立っていた。店を出て大通りから裏を歩き回り、次は沈んだ感じの店で逢うことにする。その日、彼女は店のガラス扉の前で片仮名を見つめ立ち去ったり引き返したりを繰り返し、名前を読み取るのが容易じゃなかったと言う。彼は鍛えなおしてやろうかと話す。

(三)杳子の病気がまたもとの固さに閉じこもったので、二人は喫茶店をやめて公園めぐりを始め、春休みに三日に一度ずつ逢う。駅前広場のベンチで杳子に公園の名前とそこへ行く道を次々と言わせる。彼女は異様に綿密に道順をたどっていく。着くまでは緊張するが、公園内ではほぐれて快活になった。彼は引きこもっていた時期の習い性が続いて寝つかれず、彼女の病いの目撃者になった自身を重荷に感じる。ある日杳子が河原で石を積むのを見て、それを下に積み安定した山にすると彼女は歩きはじめたが、その軀は漂い流れていくようだった。ある日約束時刻を過ぎても杳子が来ない。通り過ぎた駅の構内が改装されて向きが反対になったせいだが、このまま来ないと連絡のとりようがない。彼女は現れたが左右が逆になったと聞くと精気が引き、顔に薄膜がかかった。彼女はひとつまみの砂利をベンチの隅に目じるしで置き、公園を好き勝手に回り始める。その表情のない唇に、彼は反応があるまで唇を合わせた。

(四)彼は肉体的な衝動のないまま彼女の軀に触れたが、それはつかみがたかった。公園めぐりをやめて、また喫茶店で過ごす。杳子は外へ出ると彼の緊張を感じて動きが硬くなった。二人は孤立した時間と場所の中へ押し込まれていく気がした。杳子が食事に連れて行ってと言う。しかしナイフとフォークを前にすると、こんな難しいことはできないのでカンベンしてと哀願する。二人はそこから遠くない薄暗がりの部屋に冷えた軀を並べたが、彼の軀は存在感を失っていた。杳子は軀の豊かさを顕したが、瘦せ細った少女の顔つきになり重く横たわっていた。二人は軀のつながりができても越えられない距離にあった。足がまたその部屋に向いても同じ繰り返しで、彼女の軀は無表情であった。ある日肌の感覚を一心に凝らしていると杳子の全身が一つの表情を帯びはじめ、二人は軀を寄せ合ってまどろんだ。その声が柔らかにふくらむのが聞こえた。五月になり杳子の身のこなしは自由になった。彼は郊外の住宅街の中に、二人の営みの場所を見つけた。感覚を澄ませていると、杳子の病んだ感覚へつながっていき、その孤独と恍惚を感じ当てたように思った。肌の冷たさを保ちながらも、病気を宿したまま女として成熟していた。

(五)七月に入り彼のポロシャツ選びのためデパートに入るが、売場で杳子の目がこもりはじめ、表情が失せていた。彼はその病気とつながっていく気がしたが、それがいつのまにか成熟した女の軀の重みをそなえていることに驚く。彼女はちょっと気分が悪くなったと不貞くされた顔をした。彼は街中に留まる時間を短くすることにし、二人だけで閉じこもるようにする。奔放に肌を押しつけあうようになり、病気の核には触れなくなった。自分がはっきりしないことはなくなり、逆に重石みたいだとつぶやく。ある日ふだんの暮らしが気になり、彼女にたずねると「部屋にこもっている」と言う。病気はたしかに良くなってきたが、起き上がって歩き出すと別な人間になってしまう気がする。姉の仕草が自分に重なってくる。姉は今の自分と同じ年の時、家から駅まで行けなくて何度ももどっていた。そして夏休みに入ったら家の中に同じことを持ち込んだ。何事も決まった順序を踏まなくては終えられない。自分の部屋にこもりきりになり、私が食事を運んだ。風呂にも入らず病気にうずくまりこんだ。私は病気との境い目にいて薄い膜みたいに震え、生きているのを感じていたいと言う。

(六)八月末の夏休みに彼は山へ向かった。杳子の軀は病気を包んだまま成熟していくことを願っていると思った。帰ってから逢うことになり店の前で待ち、いつもの部屋に行こうとすると海辺に行きたいと言う。電車に乗ると隣の男が杳子を見回したり、女がお腹がすいたと話しかけてアンパンを半分くれたりした。電車を降りてから彼女は沈みこみ、二人は岩ばかりの浜を歩いた。彼は杳子の身になって、荒涼とした岩の間を生身を晒しながら歩くことのつらさを感じた。傍に寄り腰を抱きしめようとすると、彼女は歩き出す。砂浜に出ると山側から細い川が流れ、彼女が振り返るとまなざしの力を失っている。彼女は砂浜のへりに突出している細長い岩を目指す。しばらくして彼は杳子の前に回り、海に背を向けさせる。しかし彼女は、また暗い水に向かって歩き出す。やがてこちらを向き、左右に振れながら近づいてきた。よろけながら、あたしを観察するとあたしもあなたを観察することになるのよと、彼の目を睨みかえす。彼はおそるおそる近づいて抱き起した。

(七)帰り道、杳子は彼に初めて電話番号を教え、一週間したら電話してと頼んだ。しばらく逢わないつもりらしい。電話で話すと、言葉がそれだけではいかに役に立たないか思い知らされる。彼女は学校の試験のことなどを語った。翌日電話すると姉が出て取り次ぐ。また翌日電話すると、姉が試験勉強に根をつめ過ぎたせいかこの一週間ほど様子がおかしくて部屋に入ると睨みつける、五日もお風呂に入らないと言う。もう一度夜中に電話して風呂に入れと言うとイヤと答え、明日の三時に来てと言われる。翌日行くと姉が待ち構えていた。二児の母というが、細い軀がつらそうに胸で息をついていた。自分たちは九つも年が離れているが、姉妹どうしになると二十歳頃の精神年齢に戻ってしまい、双子みたいに睨みあうと話す。そして彼のことをS君と呼び始め、妹を病院にやりたいのだと切り出す。医者の話ではあのままではいけなくて信頼のおける人が勧めるのが大事だが、私たちは互いに似すぎていてだめで、妹はあなたのことが好きなので説得してほしいと話す。

(八)階段を上ると薄明りの部屋に寝間着姿で杳子はいた。病気の根を感じ当てたにちがいない彼女は病院に行かなくてもいいという彼の言葉に、あなたは健康な人だからわからないのよとつぶやく。姉の足音がした時、杳子はあの人の様子を見てと言う。お茶を運んできた姉の足どりやテーブルを布巾で拭く動きには、神経を疲れさせる妙な固さがあった。

そして姉が置いていったスプーンがテーブルと平行の矩形になっていると勝ち誇ったように指摘し、それが毎日無意識に繰り返されるのだと言う。彼が癖は誰にでもあり、生きるのはそういうことだ。君は生きるのを憎んでいるのかと言うと、姉を見る時はそうだと答える。健康になるということは姉のように同じことを繰り返すのを気味悪がったりしないことで、私は病人だから中途半端だ。だがあなたに出会って、人の癖が好きになることが少しわかった気がする。あなたは途方にくれたりまとわりついたりするが、中に押し入ってこないと話すと、彼は僕自身が健康人としても中途半端なのだと答える。二人には軀を合わせている時よりも濃い暗い接触感があった。杳子は明日病院に行くか、入院しなくて済みそうと言う。表の景色が自然らしさと怪奇さの境い目で静まり返っているのを見て、杳子は美しいとつぶやいた。


『妻隠』

アパートの裏手の林の繁みから老婆は出てきた。寿夫は正午にアパート横の共同流し場近くに立っていた。ヒロシ君が家にいるかと問われたが、それは隣の若い職人たちの寮にいる男なので知らないと答える。彼らは毎朝小型トラックに乗って仕事に出かけ、夕方戻ると食事をしてまた新開地に消えて行く。入れ替わりにアパートでテレビの音が聞こえ出し、深夜にまた若者らが騒ぎながら帰ってくる。老婆は日曜なのに出かけたのかと聞くが、彼らより少し上で三十近くの妻帯者の寿夫は、皆でどこか出かけたと答える。彼は東北の出らしいヒロシという少年を去年の春から見かけていた。毎晩年上の同僚たちに酒を飲まされたり馬鹿にされたりしていたが、やがて彼らを相手にクダを巻くことを覚えたようだ。老婆は仲間が悪いねえと言いながら、仕事のない時につまらない事しててはだめで、ほんとに心の楽しむことをしないとねえ、と寿夫にも説教調で喋り出した。心がけさえ改めればいいお嫁さん世話してあげるから、わたしたちの夕飯後の集まりに来なさいと彼を眺めまわして遠ざかった。

部屋に戻ると妻の礼子が、どこかのばあさんに勧誘されていたのかと訊ねるので、心を入れ替えたら嫁さんを世話してくれるってよと答えた。礼子は呆れ顔をした。見なれない婆さんだったと話すと、あなたはこのアパートに住む人たちのことも知らないでしょと言う。寿夫はこの一週間熱を出して仕事を休み寝込んでいた。二人は五年前からここに棲むようになったが、その半年前までは学生同士ほとんど誰とも会わずに一間のアパートでこもっていた。寿夫は月曜朝に倦怠感に襲われ、電車で出勤したものの医療室に担ぎこまれた。白衣の男に車を呼んだので帰って休みなさいと言われ、シートに腰を沈めて眠りに包まれながら帰り、玄関で返事がないので自分の鍵で入り寝床に転がり込んだ。どこか見知らぬ部屋に寝かされて礼子が駆けつけてくれたようだが眠りに落ち、意識が混濁し、また医療室にいた。車の中で眠っている気もしたが、たまたま道端で見つけられ、また見知らぬ部屋に運び込まれたと思っているうちふたたび車で運ばれる。そんな事が一晩中繰り返された。翌朝彼はようやく居場所を取り戻し、いつもの家で寝ていることに気づいた。

昼食後に寝そべっていると妻が桃を出してくれた。郷里から送られてきたものだ。彼は子供も財産もない二間だけの部屋で、家刀自の妻の姿を意識すると奇妙な気持になる。火曜の午後は戸棚の一番下を一心にのぞき込んでいたし、御用聞きが来るとカーテンの陰で立ち止まり髪をちょっとなぜつける。どの窓のうちにも一人ずつ女がこもり、日常の事を真剣に見つめながら濃密に煮つめていく。彼はその思いに圧倒された。聞けば桃はヒロシ君が病気見舞いで持って来たらしい。あの日寿夫が炎天下をふらついて家に帰ってきた時、畑のへりで彼が見ていたらしい。そして妻が夫のひどい状態を知り表に走り出たら、彼がいてお医者さんのところに飛んで行ってくれた。裏も表もあけすけだった。彼は気の抜けた笑いがこみ上げた。

礼子はあの婆さんと話したことがあるらしい。寿夫のことをなんだか病人みたいだったねえと、昔自分が亭主に急に死なれた時のことを話し始めたと言う。彼は呆れて被害妄想めいた気持になりかかった。いいカモだと見るとああいう連中は口から出まかせを言うんだよ、何かを嗅ぎ当てる嗅覚を持っているんだと言うと、夫に先立たれて望みを失った人がまた生甲斐を取り戻したとかそんな話と言いかける。二人はこれ以上問いつめれば、お互いに心の内で犯したささやかな不実を責め合うより他にないところまで来ていたが、十年間別れずにきた男女の平衡感覚で立ち止まった。二人は畑沿いの道をしばらく眺めていたが、もう物をいう気力もなかった。そして妻が寝息を立てた姿に、彼は長いこと忘れていた男女の隠っているにおいを嗅ぎ取ったように思った。このにおいの中で別れ話をする口調で、結婚生活を始める相談をしたことがある。二人はあらためて夫婦として一緒に暮らす相談をした。未練などというやさしい余情はなく、馴染みすぎた者どうしの濃い羞恥が残って、別れてしまうと恥ずかしい片割れが歩いていく姿に苦しめられていた。そのうち彼の就職が決まり、いつのまにか近親者どうしのような陰湿な目を見かわし、それから五年、今では人並みな夫婦になっている。だが友人の家から戻ってドアを開けると、同棲のにおいがすると妻に言って眉を顰められたことがあり、婆さんはそのにおいを嗅ぎつけのかもしれない。

部屋は暗さをましていくが、妻はこの一週間の疲れからか眠りこけている。彼は散歩に出た。マッチ箱のような家やテラスを張り出した邸宅があり、どの家も庭に草花を植えていて生活欲の旺盛さを感じる。自分たちにはそれがないのかもしれない。一本道の向こうから若い男が五、六人やって来た。一番後ろにヒロシがいて、寿夫は声をかけた。婆さんが探していたことを知らせると、すみませんと言って仲間のところに戻った。部屋に帰るとまだ明かりは灯っていなかったが、礼子はようやく起きた。円熟しかかった女のしるしを胸にも腰にもあらわしながら、子供みたいな顔をぼんやり浮かべている。夕食が終わり、礼子が台所で忙しく働き始め、風呂に入ってと言う。彼女は雑巾を手に戸棚の中を力いっぱいに拭き、奥をのぞきこんでいた。彼は玄関の脇にトイレと並んである風呂場に行く。そこは銭湯と違ってミニチュア細工のように細かい神経が行き届き、清潔で合理的だがなにか淫らな感じがする。風呂から出て、入れ替わりに妻が入って行く。彼が居間の襖を開けると、電燈が消え二組の蒲団がしかれ、男たちの猥歌が重くこもっている。男たちは畑の暗がりにいて歌っている。ヒロシもいるようだ。押しころした声が闇の底を流れはじめ、ゴーカンとの声が上がり、女の声を真似ながら軀をぶつけあっている。男たちが嬌声を立ててヒロシにまつわりつく。その後、ヒロシの長い詠嘆が男たちの声をつつみこみ遠ざかっていった。その時妻が、襖の向こうでゴミを捨てるのを忘れ、すぐ戻ってくるからと出て行った。しばらくすると和やかな話し声が戻ってきて、ヒロシが奥さんそのバケツ洗ってやるよ、奥さん酒呑まない、俺と奥さんはドーキョーなんだよと言う。寿夫がカーテンの隙間からのぞくと、礼子は少しだけと湯呑茶碗を傾けていた。終わると礼子のおやすみなさいの声がして、男たちは家の中へはいり、彼女が襖を静かに開け白い軀が流れるように入ってきた。その時、外でヒロシ君と呼ぶ声が聞こえた。寿夫がこんな遅くまで集会をしているとつぶやくと、妻は熱心ねと答えて軀を寄せてきた。外の不愉快な声は段々にふくらみを帯び、年齢を超えて女らしくなっていく。寿夫は礼子の声がまだ暗闇に漂っているような幻覚に引きこまれた。

 

 

『杳子』は神経に病いを抱えて谷底にうずくまる杳子と、若い男の学生が十月に出会うところから始まります。そのあと自身もあまり心身の状態が健全とは言えない彼が、杳子の病い(神経症)を少しでもやわらげようと、街の喫茶店や、公園、レストラン、休憩宿、デパート、浜辺、杳子の家などの様々な場所で、一年近くにわたり互いの心と軀をふれあわせていくという話です。神経症は不安やストレスなどがひきがねとなって起こる心の病いで以前はノイローゼと呼ばれましたが、今は不安神経症、強迫神経症、抑うつ神経症、パニック障害などと呼ばれていて、その診断や治療はそう簡単ではありません。

その難しい病いの杳子が、彼との交流により心身の状態が軽くなったり元に戻ったりする様子を作者は実に克明に描写していきます。彼女の表情や言葉、態度、行動、さらには軀の変化に至るまで、まるで現在の心療内科の医師が彼らを様々な場所に連れ出して臨床実験をしているかのように丁寧に描き出しています。そのストーリーと描写を生み出す想像力には、驚かざるをえません。あるいはモデルとなるような女性がいたのではないかとも思われるほどです。

途中、男女の肉体の関係によって杳子の軀が成熟した重さを持つようになりますが、それで病いが良くなることはありません。結果として彼女の病いには姉が深く関わっていることがわかり、最後に杳子は病院に行くことを受け入れます。ただしそれは心(神経)の健康と不健康との間に大きな差があって治療の必要性を感じたからというわけではなく、彼女は姉と違ってその境い目の不安定な状態を保つことに意味があると思ったからです。

 

『妻隠』は郊外のアパートに夫婦で住む若い夫が、裏の林の繁みから現れる老婆と出会うところから始まります。この夫婦は5年前からここに住んでいますが、その前の学生の時には二人で同棲して閉じこもっていました。それはちょうど杳子とその彼が出会って、その後二人が一緒に閉じこもって生活するようになったことを暗示しているような設定とも言えます。そして彼の就職が決まると、近親者どうしのような陰湿な目を交わしながら、馴染みすぎた者どうしの羞恥から逃れるため、あらためて夫婦として一緒に暮らすことを相談します。そのあたりにもこの2作品の主人公たちに共通するメタファーが感じられます。

老婆はこの30歳前の若い夫婦のどこかおかしな生活のにおいを嗅ぎつけて、宗教に勧誘しようと近寄ってきます。病人としてふらふらしていた夫はともかくとして、夫婦あるいは妻のおかしなにおいとは何なのでしょうか。それは杳子のような心の病いといったものではなく、小説のタイトルのような家における妻のあり方から生まれるにおいを指しているように思われます。今から半世紀も前の頃の妻(主婦)は、現在のように男女平等も進んでおらず、結婚しても働くことなく専業主婦として家で暮らす女性が圧倒的に多かったと言えます。それはまさに妻が家に「家刀自」として隠(こも)るという、実は非常に奇妙な感じがするものなのです。それを象徴的に示すのが、ミニチュア細工のような風呂場の淫らな感じということになります。最後にそこへ楔を打ち込むのがヒロシという奔放かつ猥雑な野性を有する若い男ですが、老婆にとってはそれもまた勧誘の対象でしかありません。

 

このように2作品は内容も文体も非常に異なっていますが、いずれにも言えるのは現実の人間の心と体というのは確固としたものではなく、その生活のしかたや場所、人間関係によって大きく揺らぐ曖昧なものであるという点ではないでしょうか。それを2作はきわめて対照的な設定と手法で示してくれています。

特に『杳子』は神経の病んでいる女性の内面を、男の肉体や姉との確執なども関連させながらとことん追求していて、まさに「内向の世代」の面目躍如といった感があります。その意味ではこちらの方が文学的価値は高いように思われ、やはり芥川賞にふさわしい作品と言える気がします。

 

(海馬文学会:永田 祐司)