コリント人への第一の手紙 13:1-3 JA1955 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 1 Corinthians 13:1-3 NIV If I speak in the tongues of men or of angels, but do not have love, I am only a resounding gong or a clanging cymbal. If I have the gift of prophecy and can fathom all mysteries and all knowledge, and if I have a faith that can move mountains, but do not have love, I am nothing. If I give all I possess to the poor and give over my body to hardship that I may boast, but do not have love, I gain
nothing.


OHHH!!!
怖い一文だ…
今までの僕の行動一つ一つは愛があったのだろうか??
聖書から得た愛がある言葉だといって得意げに話していたり
良いことなんだと定義付けて奉仕をしたり


これらを行っている自分を客観的に見て
「うん僕の行為は素晴らしい!神様もさぞ喜んでいるだろう!」
と思ってはいないか??

僕はアーティスト肌だけにアートを美を追求しがち…
この美っていうのは神様の御心ではなく肉によるエゴなのだろうか??

良い行いを一つの美として形づけているだけなのかもしれない

そこには愛が果たしてあったのだろうか

自分だけによる楽しみがたまたま相手にとって愛がある行為だと捉えてくれただけ

そしてそう捉えてくれるだろうと予め計算して
ただ自分の美学の為に行っていただけなんではなかろうか??


でも神様はあえて
そういう美学を追求するパッションを僕に与えてくれて

それが結果
人々に良い影響や結果を与えるように計画されていたのでは?

だったら美学を追求するモードだったとしても相手が笑顔ならそれはそれで○なんでは??

と葛藤してしまう…

こんな時は難しく考えるとどつぼにハマるから
EASYに考えてみる


「美学を追求する僕」
っていうのが神様の愛であって栄光であって

その僕が隣人を笑顔にできたのなら
それはきっと
「神様の愛を伝えた」
って事になるのかもしれない


よく
世のため人々の為に…

というセリフをきく


自分を犠牲にして他人の為に尽くす…

かなり素晴らしい事であり是非ともそうなりたい!!

…が
しかし
今、僕はそれにはなれない

だから
無理をせず

神様に与えられたパッションでただ夢中に生き、隣人を笑顔にしていく

今はそれでいいんだと思う

そしてその皆の笑顔の一つ一つが神様の愛であり、また僕自身満たしてくれる


この善循環のシステムこそ
無条件の愛というのかもしれない



〓♪KAI☆〓

1 Corinthians 12:26-27 NIV If one part suffers, every part suffers with it; if one part is honored, every part rejoices with it. Now you are the body of Christ, and each one of you is a part of it.


僕らはキリストというカラダの1肢体である
手は手の役目
足は足
耳は耳
目は目
に役割があるように
それぞれに与えられた役割を持っている
そして苦しみも痛みも喜びも全て共有するべきだという事

僕は昔から
他人の功績を妬んでいた
心から喜べなかった

なぜなら
自分から見たフォーカスで損得勘定で物事を捉えていたからだ

他人の功績を妬むというのは自分が劣っているという事を自覚しているから…
すなわち自分に自信がないからである

自分に自信がないときは決まって他人を批判する

日々
階段をのぼって向上する姿勢ではなく
フットステップ(トレーニング機材)でただその場でステップを踏んでいるだけの状態(のぼっていない)

他人より勝っているように言い聞かせているだけの状態である


しかし
相手を認めて
それだけを目標にして生きていくのも正直限界がある

ではどうしたらいいのだろうか…


その答えが

まさに自分が肢体の一つで
自分は他の肢体にはなれない

また違った役割があるんだ

という事に焦点を当てて

自分らしさを追求していく

という事だろう


まるでパズルゲームのようだが
僕ら人間というピースは
丁度ピースがはまるように神様が造ってくれている

その一つ一つのピースをはめるべき場所にはめていけたら

世界は一つになるんだろうなぁ

と思う今日この頃であった

〓♪KAI☆〓

コリント人への第一の手紙 10:31 JA1955

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。

1 Corinthians 10:31 NIV

So whether you eat or drink or whatever you do, do it all for the glory of God.

僕らは自分の為に生きているのではない

鳥は羽ばたき
犬は吠え
猫は鳴く

これらは神様の栄光を表している

僕ら人間も何をするにもこれは神様の栄光を表しているのか?
という事を毎回自分に問いかけていく必要があると思う


ごはんを食べるのも
仕事をするのも
歌うのも
笑うのも

僕が僕らしく堂々と生きていく事

これこそが神様の栄光を表している

僕らしく?

ここが究極のテーマかもしれない


僕らしく生きる事と

好き勝手生きるのは違う

神様から与えられたGIFTを用いて
神様フォーカスで生きていくこと

どんなVISIONを持って生きていくかってこと

まずは
本当の僕らしさを
神様に祈り求めてみよう

〓♪KAI☆〓