Kaiのブログ

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思ったことを書いています。

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久々に開いてみた。なにかと忙しくて書く暇がなかったし、あれからいろんなことがあった。

マンションを購入から5年。紆余曲折ののち、今もそのマンションに暮らしている。

思った通り、緑に囲まれ、快適である。しかし、この快適さを今一番味わっているこの今、それが感染拡大による人類の窮地においてであることを、五年前、予想も空想もすることはできなかった。

そして、そんな中、このブログを久々に開き、この一文を記す。

マンションを買った。
家を買うということ自体に、興味を覚えたことはこれまでなかった。
それでもそろそろ所有欲も出てきて、購入に至る。
購入するに際し、気をつけたこと。
立地。よく言われることだけど、山の上が好条件で高いと。
しかし最近は駅に近く、駅からフラットに歩ける場所のほうが若者には受けるとのこと。
僕としてはどちらでもいいけど、もうあまりごちゃごちゃしたところに住みたい気はしなくなった。
環境。立地に似てるけど、どんな環境が、どんな自分をこの先育てるのかを考えた。
これまで住んだところは確かに今の自分を育てた。とするなら、今後10年くらいはどうだろう?と。
やっぱり、緑が多くて、物を考えるための、散歩道があって、静かで空気もきれい。でも都心から離れていない。今回選んだ場所はおまけに、美味しいお店が多い、というのも加わった。
そのマンションには、緑も多かったので、購入の決め手になった。
やっぱり静かに物をじっと考えられる空間が欲しいんだなと思った。
今までと比べて不便なところもある。
駅からは9分。今までが7分。
さほど、差はないが、今までの7分は途中にいろいろお店もあったりして、すぐに着けた印象。
今度は住宅街だから、静かな道となり、やや距離を感じる。
しかし歩く中、静かに物を考えられる。
中心部からは少し離れるため、今までの様な便利さはないかもしれない。
しかし、今までの10年と違って、車を使ったりタクシーを使ったりすれば、そこまでの不便さはないはず。
便利さよりも、物を学び、ものを考える、その時間と空間を、この先重んじようと思った。
住環境の選択は、今と、この先の自分の設計をより明確にしてくれる。
今自分に必要なこと、この先自分に必要なことが浮き彫りになる。



小説というのは、一回、形が行き詰まって、そのスタイルというものが飽和し、コモディティ化・陳腐化したもののような気がする。実は音楽もそうだと思うのだが、小説はしかし律儀に小説でありつづけても、飽きられることはなかった。

 つまりストーリーというものは、とっくに飽きられたものでも、人生初めて接する時、新鮮味を持って受け入れられる。こういうからくりが小説にはあるのかもしれない。

 音楽について言えば、ぐるっと回って新鮮に聞こえるというメロディやスタイルもあるだろう。それでも、クラシックのスタイルに、現代の音楽が戻るということはない。それはやはり一度形式としてはコモディティ化して、現代音楽によって解体され、今に流れている。この流れは遡行しない。そこにはやはり、コモディティ化・陳腐化ということが作用しているように思う。

 最近のソニーのバイオの売却もそうだけど、電子機器やパソコンの陳腐化のスピードはすさまじい。パソコンはもはや、大型テレビと同じように、コモディティ化・陳腐化し、それを正面切って開発して売ること自体が反経済的な行為になってしまっているのだ。

 同じようなことは、音楽にも、小説にも起こっているし、もちろん、映画にも起こっている。

 昔エントロピーの増大ということがブームになって語られたことがある。脱構築という言葉が盛んに議論されたこともあった。今、この陳腐化という流れは、崩れることや、脱構築することとはまた違った、問題意識となっている気がする。



2015/07/03 追記:陳腐化、というのは、会得みたいなことか? 腐敗は次の成長への肥やしとなる。と同じように、陳腐化から、次の発見と成長の芽がでるのかもしれない。ということは、一度、陳腐化までの道を歩かないと、次への発芽には至れないのかも。飽きるということも含めて、想像には非常に重要なプロセスなのかもしれない。
例えば、小津の映画がある。あれは、陳腐化を自らのスタイルに組み込んだとも言える。そこからの発芽を、ほとんど包み隠す。しかし、我々はその陳腐化したスタイルの繰り返しに、生き生きとした新しい芽を、永久に感じ続けることになる。

最近、お酒をやめている。

一人で飲むことを、四ヶ月くらいやめている。
もちろん誘われれば、人とは飲みに行くが。
それも、仕事で忙しくて減っている。

日々が軽快に過ぎていく実感はある。
お酒を飲むと、どうにもこうにも、重い。
日々が重くなる。
そういう感覚から開放されて、日々やりたいことができるようになっている気がする。

お酒はいいものだ。
それはわかっている。
日々、飲んでたころも、悪いところよりも、良い所のほうをより享受していたように思う。

飲めば意識が覚醒して、より快活に、大胆になれた。
でも、それをやめて分かるのは、酩酊しない、クリアな時間の継続が、いかになめらかに、円滑に日々を進行させることかということ。

明晰な神経と感覚が進行し、ただ、眠気だけが意識のまどろみとなる。
その中間はない。
これがもたらす効果を考える。

子供の頃、意識は常に明晰で、永続的だった。
それがある考えを突き詰めるのに必要だったように思う。
空想を突き詰めるのに必要な時間だったように思う。

お酒を飲まなくなって、大人になって初めて、そうした時間を取り戻せているような気がする。



 早起きのできない日は、必ず夜更かししている。早起きをしたいが、したところで、絶対に居眠りをして、ほぼ、睡眠時間は元に戻っている。死ぬまでの睡眠時間の絶対量は、人によって様々だろうが、その人のキャパというものがありそうだ。

 早く起きるには、早く寝るしかない。みんなとしょっちゅう飲みに行ってるような生活を続けてては、無理。

 みんなとしょっちゅう飲んでも、一体人生、何が変わるのか。早起きをするよりも、何か得をすることがあるのか。十年間、みんなと飲むことを優先させ、早起きというものをないがしろにしていた自身の価値観を検証する所、どうも、みんなといくら頑張ってたくさん飲みに行っても、自身の中で大きく変化が現れることは無さそうだ。

 飲むのもいい。みんなと話して刺激を受けるのもいい。でも早起きはもっといい。付き合いを少し目減りさせても、自分と付き合う時間を朝たくさん持つ方がいいかもしれない。もしも、自分に成し遂げたい目的があるならば、特にそうである。