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Kaiのブログ

思ったことを書いています。

 カントは、ある一点から、全てをある論理で見通すという従来型の方法を疑ったそうだ。その論理そのものが、必ず、様々な諸条件で揺らいでいるのを知ったから。

 この論理によって、あらゆる事象を見渡す方法というものは、哲学ではなく、「数学」に由来するらしい。「数学」の根源的な方法とは、一つの公理から、あらゆる事象を分解し、証明する。しかし数学においても、この公理というものが揺らぐ限界を見つけていた。非ユークリッド幾何学の提唱などがそれである。

 僕らが生きている中では、すでに感覚的に、こうした「ひとつの論理からすべてを見渡そうとする」こと自体、経験的感覚的レベルで、古風なもののように思えている。この感覚は、すでに19世紀や20世紀においてもうっすらと漂っていたのだろうか。当時はまだ宗教の力が支配的だった。哲学上で議論されて来たことが、今、我々の社会の中で、肉眼でも透視できるようになって来たのだろうか。

 社会というもの、世界というものは、それほど分かりやすく様相が変わっていくものだろうか。人間の意識が、社会を変えるのだろうか。だとしたら、当時語られていた哲学的な意識が、世界のありようを、科学、数学、様々な観点から変えて来たと言えるのだろうか。それとも単なる気のせいなのだろうか。

 これからの世界の見え方は、過去の哲学に見ることができるのかもしれない。


今日は映画を見たり、片付けた部屋でのんびりしたり。
テレビのような映像が、人々の好みの映像になっている気がする。
テレビのような映像とは、テレビで見るような、見心地の良い映像だ。
ぼんやり見ていても、苦にならない映像。
意識に直接働きかける映像というものは、思いのほか、バリエーションに乏しいのかもしれない、と思ったりする。人々は生理的に、映像に沢山のバリエーションをそれほど求めていないのかもしれない、とも。
全く新しい革新的な映像……こんな言葉がいつの日か、古い言葉になるのかもしれない。というか、もうすでになっているのかも。

 物を作るといっても簡単なことではない。
 まずはじめに、何を作るのか? 例えば僕の場合は、目に見える物を作りたいと思う。視覚に訴えたいのだ。
 しかしなぜ視覚に訴えたいのか? なぜなら、人は目に見える物に対しては、従順だ。耳で聞く物に対しては寛容だ。肌で感じる物に対しては、利己的だ。
 視覚というものに対して、僕は活発に刺激を与えたいと思う。
 世の中に、新しいというものがあるとしたら、それは感覚的な問題にすぎない。新しい物は常に古い物の累積だ。
 見え方が新しいだけであり、常に古い物の累積によってしか、新しさは表現できない。
「新しい」の逆は、「古い」ではない。
「新しい」の逆は、「未知」である。
「未知」なるものに、新しさは無い。むしろそれは、真逆からの支配があるばかりだ。
 ところで、僕は、未知なるものを人々の視覚に与えたい。
 ある日、彼女が聞いて来た。
「カントって、わかる?」
「分かるよ」
 彼は一応、大学4年の文学部だ。
「どんな人?」
「どんな人って? 性格?」
「何やった人?」
「哲学の人だろ」
「哲学で何やった人?」
「批判した人だろ」
「批判って?」
「純粋に理性を批判した人だよ。あんじゃん『純粋理性批判』」
「へぇ」
「へぇって、しらねーの? 純粋理性批判」
「知らない」
「じゃなんでカントのこととか聞いたの」
「いや、なんか知ってるかなと思って」
「カントって言ったら、純粋理性批判だろ」
「理性を批判したの?」
「そう。純粋に」
「凄いね」
「凄いか?」
「だって、理性ってさ、批判していいの?」
「いいよ!そんなもん。自由だろ」
何か考えることというのは、この現代、難しいと思う。非常に沢山の情報が舞い込んで来る中で、何かに対して集中的に考えるということが、困難んいなってきていると感じる。
 昔から自分で考えながら行動している人間というのは、こういう状況にあっても、考えることが「得意」である。
 今、一体なにを考えていくべきなのだろうか。現在においては、「戦時中」と同じように、現実的な問題について答えを出さなければならないように思う。こういう時、「抽象」は、非常に蔑まれてしまう。そういうものは理解されないし、尊ばれない。具体的なものを考え始めるとやはり各論になる。そこでは、非常に論理的なものよりも、状況を把握しながら、常に、その先を考え抜く結論的な断定が尊重されるように思う。
 今はなにを考えるべきだろうか。なにが必要とされているのだろうか。現実への断定と決定と結論だろう。そういう時代は常に忙しい。「抽象」と戯れる時間はない。しかし「抽象」が次のまったく得体のしれない将来という時代の方向性を示す。示すて係となる。しかし、こんな時代に、「抽象」は必要ない。
 そんな時、なにをするべきなのだろうか。何かは分からないが、「物」を作ることに徹することが、ある種の抽象を表現するのかもしれない。