明後日、もう一度映画「湖の女たち」を観に行く予定
なので、これは現時点で私が思ってることの覚書
この映画のテーマのひとつが「生産性」
福士蒼汰さん目当てで観た映画だが、ここのところずっと「生産性」ってなんだろう?って思ってる
この言葉を人間に対してつかうのはどうなんだろう?
何かを作り出せば生産?
それを受け取る側は関係ない?
例えば、アートやエンタメ
受け取る人によって感動があったりなかったり
誰も何も感じなかったら生産性はない?
でもその人は何かを表現したかったはず
例えば、この映画の舞台でもある介護施設
仕事に生きがいを感じている介護士がいるとしたら、
サービスを受けている人にも、ある意味生産性がある、と言えなくもない、気がする
人は生まれて来て、そこで生きて行く、ただそれだけ
どう生きるかは人それぞれ
そこに「生産性」という言葉はない、気がする
映画を観て、
元になった事件等の知識がないせいで、「生産性」というテーマについてはあまり感じられなかった、と思っていたが、
元々私の中で「生産性」という言葉が、腑に落ちてなかったせいかもしれない、とも思った
そして原作小説を2/3位読んだところで、
映画.com「湖の女たち映画評論・批評」高森郁哉さんという方の記事を目にした
全部と言っていい位、モヤモヤが解決した
「原作小説は主要人物らの思考や感情を多視点で描き出す群像心理劇の形式で構築されたのに対し、大森監督は俳優が発する台詞と演技で内面を想像させるにとどめ・・・」
そう大森監督は、観る側(そして演じる側にさえ)何かを感じて欲しい、というスタンスみたいだ
高森さんは、生産性について
「人間の価値を生産性という基準で評価する異様な考え方は、「民族的・身体的に劣った人間は処分すべし」とする優生思想と根が同じ」と書いている
今、世間では「生産性」という言葉はどんな意味を持って、どんなふうに扱われているんだろう?と思った
そして、映画の中で(私にとっては)結構強烈な印象だった子供の大人を見返す視線、その意味も納得
「「長い物には巻かれろ」ということわざを持ち、忖度や付和雷同が肯定され・・・脈々と継承されてきた国民性・・・大人が行い黙認してきたことを真似る私たちを、責める資格があるのか」
そして「組織や集団が人の命と幸福より生産性(利益と言い換えてもいい)を優先するとき、個人の正義感や倫理観は簡単に踏みにじられてしまう」
これがここに描かれている人々の悲しみの原因みたいだ
取り敢えず小説を最後まで読んだ
泣くとは思ってなかった
佳代が湖畔をジョギングする場面
圭介との関係を経て、多分佳代は生きている実感がないような日常から解放されたんだと思う
ここでの涙は自分でもよくわからない
そして、湖の夜明けの描写を読みながら涙が出てきた
号泣ではなかった
じわじわと涙が出てきた
悲しかった
出てくる人達みんな、悲しかった
読み終わった後も考えてるとじわじわと涙が出てくる
小説の最後は、
この後事件は解決するんだろうな、
でもその後この人達は、どうするんだろう?
という感じだった
ここで、映画のラストシーンを覚えていないことに気づく
どうしちゃったんだ、私!
映画のもう1つのキーワードが、「世界は美しいのだろうか」
高森さんは
「世界を見てその美しさを問う人は、わが身の、人間という存在の美しさを自問している」
と書いている
そんなこと、気にもならない人もいると思う
「美しいのだろうか?」と問うている時点で、その人には美しい景色をみることが出来る可能性があるような気がする
今放送中のドラマのタイトルでもある「ブルーモーメント」を思い出す
「夜明け前と夕焼けの後のわずかな隙に訪れる辺り一面が青い光に照らされてみえる現象」だそう
私は見たことがあるんだろうか?
長い人生だ
あるような、ないような・・・
覚えてないってことは、
見たとしても「美しい」って認識できなかったってことかな
悲しい・・・
まずは、明後日
福士蒼汰さんを堪能して来る!