鍛冶田遺跡   [補足] | かいぞうのブログ

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9/7 に書かせてもらった「鍛冶田遺跡」ですが、
(→ http://ameblo.jp/kai-drum/entry-12197817597.html)

その後の調べで分かったことを補足として書きます。

 

遺跡発掘の地名から、
アメノヒボコに関わる遺跡だとは予想してましたが、
播磨国風土記に このような記述を見つけました。

 

 

 「昔、但馬国の人で伊頭志君麻良比(イズシノキミマラヒ)という者が、
 この山に家を建てて住んでいた。
 その家の二人の女が、夜に麻を打っていたところ、
 そのまま麻を自分の胸に置いて死んでいた。
 だから麻打山と名づけた。
 それ以来今なお、この辺りに住む者は、
 夜になると麻を打たないのである。」

                  <揖保郡の麻打山の条>

 


伊頭志君麻良比とは出石の君 麻良比で、
アメノヒボコの末裔とされる人物。
そして麻打山は、
斑鳩村の大字阿曾(現:揖保郡太子町阿曽)とされていて、
地図で確かめてみると、
なんと鍛冶田遺跡のある糸井の北西4kmほどの所でした。

 

                                      (糸井と阿曽の位置関係)

 

そして、この阿曽地区の北の誉田町には阿宗(あそ)神社があり、
応神天皇・神功皇后を祭神としています。

 

誉田町の誉田(ほむた)とは、
誉田別尊(ホムタワケノミコト)の誉田で、
すなわち応神天皇のことです。
神功皇后は応神天皇の母でありアメノヒボコの末裔。

 

8/24 のブログ「気比神宮」でも書きましたが、
(→ http://ameblo.jp/kai-drum/entry-12193416081.html)
誉田別尊は気比神宮で、
伊奢沙別命(イザサワケノミコト)と名前交換したと伝わっていて、
伊奢沙とは、
アメノヒボコの神宝「胆狭浅(イザサ)の大刀」の胆狭浅で、
応神天皇とアメノヒボコは強く結ばれています。

 

阿宗(あそ)神社の「阿宗」は、
阿蘇山の「阿蘇」と同音・同義で“鉱物のある場所”の意。

また、古事記 開化天皇の条に、
「息長日子王は針間(播磨)の阿宗君の祖」とあり、
息長日子王は神功皇后(息長帯比売命)の同母弟にあたることから
この阿宗神社はアメノヒボコと縁が深いことが分かります。

 

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で、ここからは余談となりますが、
前述の播磨国風土記の記事の中で、
夜、麻を打った女二人が、
麻を自分の胸に置いたまま死んでいったという話。
ちょっと無気味ですよね。
これは何を意味するものかと いろいろ調べていたら、

「青銅の神の足跡」谷川健一著にこんなことが書かれています。

 

『『鉄山必要記事』の中には、金屋子神が麻苧の乱れに足をとられて転んで死んだので、タタラ師は麻苧を禁忌するという伝承が記されている。吉野裕氏は麻(アサ・サ)は砂鉄の意味であるとしている。サまたはソが古代朝鮮語で鉄を指すことからして吉野説には賛成できる。その語源穿鑿は別としても、鉄と麻との間に関係があるらしいことは、香川県善通寺市の大麻山の付近から銅鐸が出土していることからも類推できる。阿波一の宮の大麻比古神社の近傍の鳴門市檜からも銅鐸が出土している。また宮城県白石市にも青麻山がある。青麻山は大刈田山とも呼ばれる。その下を流れる白石川の支流から砂鉄が採れる。

 

麻のするどい葉先が神の目を傷つけたという伝承があり、それが目一つの神の由来を物語る説話となっていたことから、鉱山やたたら炉の付近で麻を打つのは禁忌とされていた。それは麻でなく竹でも栗のイガでも胡麻の葉でもよいのだが、とくに麻がここで問題にされたということは、麻が鉄を意味していたためであると思われる。』